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特徴

2011
Issue 38
10 for 10 with Isamu Tatsuno
By Bill Ross


モンベル代表取締役会長
辰野勇&ビル・ロス

モンベルは間違いなく日本のアウトドア市場におけるトップブランドである。国内だけでも68の直営店を展開し、衣類やテントをはじめ、寝袋、バックパック、カヌーやカヤックというアウトドアギアから、日本的でユニークなキャンプ用セット(竹製茶せん付き!)まで実に幅広いラインアップを扱う。創設者の名は辰野勇。起業家にして登山家、カヤッカーであり冒険家である。

私達はほぼ奈良公園内に位置する彼の自宅へうかがった(門の外には鹿のフンまでちゃんと落ちていた)。伝統的な日本らしさが溢れる素敵な木造の家。茶室とそびえ立つ古い木々。気取りのないこの家は、プリウスを運転し、会社を私企業として率いる彼に良く似合っている。「公開会社だと利益ばかりを求めなければならなくなるけれど、株主が僕だけならそんな心配をしなくていいからね」とその理由を語った。


1:モンベルは日本で長く成功してきましたね。「辰野勇」にとって、この10年間にどんな事が起こりましたか?

まず、この家を建てたのが10年程前です。妻に聞いてみないと確かではないですがその頃だと思いますよ(注:奥様によると正確には13年前だそう)。その前は大阪の堺に住んでいました。僕は奈良公園の辺りがとても気に入っていて、不動産会社に探してもらいこの土地に巡り合ったのです。元々は興福寺の寺僧の住居として使われていたそうです。興福寺にはこうした寺地が17ヶ所あったのですが、明治維新で分離させられてしまったのです。

この家はアメリカ西海岸から取り寄せたレッドウッドのリサイクル材を使って建てられています。レッドウッドの木々は樹齢何千年にもなり、昔から橋や倉庫作りの材料として使われてきました。

キャリアで有名なヤキマ社の創設者ドン・バンドゥッチはクレイジーなカヤッカーで僕の友人ですが、彼はヤキマを売却した後にレッドウッドのリサイクル会社を始めました。僕はどうしてもこの素晴らしい木材を使いたくて、結局12メートル大のコンテナを12個取り寄せました。

この家を建てるために最良の材料を使いました。全部ではありませんが、エクステリアの大半はそうです。レッドウッドは雨にとても強いので、外観部分に使うのに最適です。ワイン樽に使われていた材木もあって、これは特に美しいものでした。ただ強いワインの香りのせいで、建設中は皆酔っぱらってしまいそうでしたね。


2:あなたの数あるアドベンチャーの中でも、特に1969年のアイガー登攀が有名ですね。

当時21歳、史上最年少での登攀でしたが、「軽く、速く」を意識して挑戦しました。高田光政氏が日本人初登頂をしていましたが、彼のパートナーが命を落とし、全員生還したパーティーとしては僕達が初めてとなりました。このアイガー挑戦を前にして、考えている事がいくつかありました。「ファンクション・イズ・ビューティー(機能美)」「全てのラインには意味がある」「シンプルにやること、そうすれば素晴らしくなる」。こうした考え方はクライミングにぴったり当てはまり、モンベルの製品作りにも引き継がれています。

実際、僕達のパーティーはかなり速い登頂を果たしました。モンベルのイメージに使われている僕の写真は良く撮れている一枚で、登りでの唯一の写真です。残りの道程に関して、僕達はカメラや食べ物、ロープ、全てのギアを捨て「軽く、速く」進みました。登りの途中でビバークもしましたが、一日で登り切る事も可能だったかもしれません。

悪天候による足止めを予想してのビバークで、留まれる所は斜面にあったテーブル程のスペースのみでした。僕達より一日先に出発していて、途中で追い越したユーゴスラビアのパーティーも一緒でした。

ユーゴスラビア隊にとってはまだまだ厳しい時代で、僕達が置いていく荷物を引き取りたいと言われました。僕達のカメラやロープ、食べ物を持って彼らはそれから2日間かけてゆっくりと登り続けました。僕達が「軽く、速く」を目指していたのとは対照に、彼らは「重く、ゆっくり」と進みましたが、見事にユーゴスラビア初のアイガー登攀チームとなったのです。


3:大学の山岳部の様な団体に属していたのですか?

僕も友人のイヴォン・シュイナード(パタゴニア及びブラックダイヤモンド前身会社の創始者)も高校までしか出ていません。イヴォンとよく冗談で、僕達は経営学修士号(MBA)の代わりに不在経営学修士号(Management By Absense)を持っているよね、と笑い合っています。それでも今では大学で教鞭を取ったりもしています。

僕は16歳の頃、2つの夢を持っていました。日本人初のアイガー北壁登攀者になる事、そして28歳までにアウトドア関連の会社を設立する事です。この2つの夢がはっきりしていたので、大学に通うつもりはありませんでした。その頃の大学生達といえば日米安全保障条約に対する抗議運動に夢中で勉強なんてしていない時代だったし、とにかく大学に行く必要性を感じていなかったのです。

僕はクライミングを自己流で始めました。パートナーもいなかったので、セルフレスキューの方法を自分で編み出して行く事になりました。畳にピトンを打ち込んでカラビナとロープを付け、落ちたらどうなるかを試してみたりしました。当時は手引書も殆どなくて、クライミングをしている人達はいたけれど、あまり関わりはありませんでした。

23歳の頃だったと思いますが、僕は日本初のロッククライミングスクールを立ち上げました。初めて参加してくれたグループの一人は今も一緒で、現在はモンベルの代表をしています。彼は当時高校生で、一番に申し込みをしてくれた人物でした。やっぱり全ては繋がっているのですね。


4:モンベルはどのようにして始まったのですか?

  会社を設立したのは36年前、1975年の事です。この家をいつ建てたのかは正確に覚えていなくても、会社を建てた年はちゃんと覚えていますよ。

僕はタイヤのナイロンコード等の産業織物を扱う小さな貿易商社で働いていて、そこで防弾チョッキに使われるケブラー繊維や耐火性のあるノーメックス繊維の存在を知りました。その頃のクライミングギアに使われている素材はあまり良いものではなくて、こういった優れた繊維を使えば、もっと良い製品が作れるはずだと考えたのが始まりです。28歳までに会社を立ち上げるという誓いもありましたからね。


5:はじめに作った製品は何でしたか?

正式に発表した最初の製品は寝袋でした。従来の寝袋の詰め物は専ら羽毛で、どこか安物のイメージがありました。羽毛は暖かく軽い素材ではあるものの、濡れるとぺちゃんこになってしまう特徴があり、当時の合成繊維も重くてごわごわしたものでした。

その頃、アメリカのデュポン社がホロフィル2という、マカロニのように内側が空洞になった新繊維を発表しました。コンパクトに圧縮でき、広げるととても良く膨らむ素材です。そこでデュポン社から1梱取り寄せて、奈良にある布団メーカーに繊維加工を依頼しました。ホロフィルはとても滑りやすく難しい作業になりましたが、問題を乗り越え、そこからモンベルは始まったのです。


6:この10年間でモンベルに何が起こりましたか?

モンベルは大きく変わりました。10年単位で変わってきたと言えると思います。はじめの10年間は卸売業者として、他の卸売業者向けの販売。次の10年間は直販店を開いて、より直接的な卸売りを。そして次の10年間には、顧客を相手にした直接販売を行うようになりました。ここ10年間では沢山のモンベルショップを新しくオープンさせることができました。

製造業者として始まったモンベルは、現在はもっと総合的なブランドとなりました。お客様にとってより便利になるように、ショップではモンベル製品だけでなく他社製品も販売しています。

2002年からはアメリカに進出し、コロラド州のボルダーにショップを展開しました。以前にもカルフォルニアに店舗を構えましたが、競争が激しくて撤退した経緯があります。ただ市場から完全撤退してしまうと、「もういないから大丈夫だろう」とノウハウを盗む人達が出てくるものです。無事に解決できたものの、モンベルもいくつかの法的トラブルを経験しました。この経験から、僕達もアメリカに錨を下ろしベースキャンプを張らなければと決めたのです。

一つ興味深いことは、モンベルクラブメンバーシップの人気の高さです。モンベルクラブは20年前から始めて、今では27万人が加入しています。年会費は1年1,500円ですが、大きな意味を持っています。殆どの企業では入会費があるのみですが、モンベルでは1年毎に年会費を頂いています。会員数27万人ですから、年間4億500万円の計算です。この一部は地震救援活動等の社会事業や特別な活動を行っている人への支援に当てられています。

イヴォン・シュイナードから、パタゴニアの行う“1%フォー・ザ・プラネット”活動にモンベルの売上の1%を寄付する提案を受けましたが、僕は違った取り組み方を選びました。会社の売上金の代わりに、モンベルクラブの会費を使う事にしたのです。

この先10年で、会員数100万人達成を目指しています。いや30年かかるかもしれません。政治家に選挙があるように、モンベルにはモンベルクラブがあります。会員数が増えて行く限り僕達のやり方は間違っていないという事で、もしも減っていくならばそれはモンベルの何かが間違っているという証明ですから、体制を変えていく必要があるということでしょう。モンベルクラブは僕達の活動に対してのとても良いバロメーターであり、毎年一度やってくる試験だと考えています。


7:会社にとって創始者や代表者は顔となりますが、モンベルの場合はどうでしょうか?

今日のアウトドア市場において、創業者が今も変わらず経営に携わっているのは、僕とイヴォン・シュイナード位だと思います。他の創業者達は皆会社を売却したり、他企業に買収されたりしています。パタゴニアに関して言えば、イヴォンは会社の象徴と言えますが、僕自身はどうですかね。モンベルクラブの会員がメンバーになるのは僕を知っているからではなくて、モンベルという会社を知っているからです。

会社には象徴となるべき人物が必要だとは思いますが、ずっと続くものではありません。僕はいつか、「辰野勇って今どこで何をしているのかな?」なんて言われたら嬉しいのです。僕は少しずつ姿をくらましていく、これが理想的。そこからは会社の存在そのものが語り継いでくれるでしょう。


8:日本の企業にとって、環境や社会的責任がより重要視されるようになっていますが、アウトドア関連の企業にとっては特にその傾向が強いのでは?

そうですね、僕も今まで以上に力を入れて行きたいと思っています。これまでも山小屋のトイレ整備を始めとして様々な問題に取り組んできました。何日か後にこの問題についての講演をする予定です。国民の税金が女性問題や環境問題等のために正しく使われるよう働きかけていきたいと思っています。

僕が懸念している事に、この素晴らしい日本の自然界についての問題があります。僕達は自然をただで使わせてもらっていながら、そこでお金儲けもしています。山小屋もそう。僕達クライミングギアメーカーにとって、果たしてどんなやり方が正しいのかを考えています。

日本の税金制度はアメリカと大きく違います。アメリカでは寄付という概念が当たり前のように浸透していますよね。法人税も日本(最高50%)より随分低い設定です。企業に残る資金が日本とアメリカでは全く違うのだから、寄付や貢献の方法も異なった形になります。


9:モンベルは民主制ですか、それとも君主制ですか?

そうですね、僕はあまりいろいろ話すのは好きな方じゃないんです、それより行動派。論ずるより産むが易し、ですね。「議論はもう結構!(英語で)」って(笑) 英語って本当に便利ですよね、日本語より明快な時がある。

モンベルという場所で、僕には決定権があります。僕は8人兄弟の末っ子なんですが、末っ子というのはどうも…ここにあるふたつの柿で言うと、兄弟が3人いる時、一番上の子は必ず末っ子に取り分けてあげるんですよね。でも末っ子というのは分けてはあげるけれども、まず自分の分はきっちりキープするものです。

僕のやり方も同じなのだと思います。まず自分の取り分があって、残りを他の人達と分ける。それが僕の考える会社の形なんです。だからこそ僕は会長でありながら代表取締役。一般的な顧問としての会長とは違った役割です。


10:今でも野遊びをされていますか? 引退後にやりたい事はありますか?

ええ、この何年かで初めての登りや下りに挑戦しました。カヤックで黒部川の源流部から河口までを初下降して、コロラド川も3回漕破(日本人初漕破)しました。ネパールやコスタリカの川も下りました。エクストリームな事はもっと若い頃に沢山やったから今はあまりクライミングはしないけれど、カヤックは続けています。シーカヤックよりも川下りの方が好きだけど、両方やりますよ。その方が面白いですからね。

それから、何年か前に幼稚園から送迎バスを譲ってもらい、キャンピングカーに改造して妻と一緒に日本中を旅しました。カヤックを積みこんで、たまにクライミングをして、九州から北海道までまわりました。当時はノートパソコンがまだ無かったから、映写機を積んでいってスライドショーをしましたよ。

全国のモンベル取扱店で催してくれるイベントでトークをしたりして、お金のかわりにお米や食べ物を頂いて自炊をしながら旅をしました。とても楽しかったですね、またやりたいと思っています。妻は毎晩温泉につかりたいと言うのですが、僕はなんでもいいんです。コンビニで買ったものを食べていても幸せですから(笑)。