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特徴

2010
35 号
Q4: Wayne Lynch
By Angie Takanami

まだ眠りについている、人影のない漁港にうねりが押し寄せる。
静寂な海を前に、紺色のフリースとカーキ色のショートパンツに身を包んだ白いあごひげの男は、
ティーンエイジャーの息子と公園のベンチに座り、うねりの行方をじっと観察していた。
夜が明けるにつれ、波は見やすくなってくる。
突如、4フィートにもおよぶ水の壁が空へむかって盛り上がり、
パーフェクトなチューブを形成するかのように崩れはじめた。
が、“ドーン”という重く響きわたる音とともに一気に崩れていった。
「ワオ、今のは速かったね」
ウェインは笑いながら息子のジャラに話しかけた。
 
ロングボードからショートボードへ移行していくサーフィン界の革命的な時代を、
当時ティーンエイジャーだったウェイン・リンチはその身をもって経験している。
生き字引的な存在感はまさにレジェンドと呼ぶにふさわしく、
いまだ手つかずの自然が多く残る南海岸ビクトリアではパイオニアとして知られている。
サーフィンへの熱きパッションと豊かな想像力をもって、
一流のサーファー、そして名シェイパーとして世界に知られる存在になったウェイン。 
今回、幸運にも彼ら時間を過ごすことができ、その素顔に触れることができた。
 
 
Angie Takanami: 日本には何度か来たことがあるそうですね。
Wayne: 4〜5回です。四国と東京周辺、それから北の方で漁師の家族と過ごしたこともありました。その家族は英語が、私は日本語が全く話せませんでしたが、お父さんと一緒に釣りへ行くほどに充実した時間を過ごせました。一週間ほど滞在したと思いますが、とても寒かったことも覚えています。 


A:  
どうして日本人の家族のところに滞在したのですか?


W:  かつての日本というものを見て、どのような生活を送っているのかを知りたかったのです。サーフィンを職業にするということは、決められた枠の中で生きているようなもの。様々な国を訪れても、海にしか行かず、サーファーとしか会わなければ、本当の意味でその国の文化を知ることは難しい。私は、異国に行くのなら、サーフィンという枠からはみ出して、その国を見たいし感じたいと思っていました。だから漁師の家族にお世話になったのです。
 

A: 日本では記憶に残る波に出会いましたか?

W:  もちろんです。四国は最高でした。メロウなローカルたちはひたむきなサーフィンライフを送っていました。東京周辺ではサーファーを見つけられず、しかし湘南では何百人というサーファーがひとつのエリアにラインナップしていました。混雑している海は避けたかったので、海岸を1時間半ほど北上しました。誰もいないポイントを見つけ、「よしサーフィンだ」と思ったのですが、そこもあっという間にサーファーだらけに。みんな私たちのことを追いかけてきたのかな?(笑)
 

A:まだプロツアーを回っていた時の話ですか?

W: そうです。もうだいぶ前のことですね(笑)。
 

A: 10代という、とても若い年齢でツアーをやめてしまいましたよね。

W:  18歳になった頃には、もう充分な経験を積んでいましたからね。早くから世界中をまわるなど、深い感謝の気持ちを無くしてあの頃を振り返ることはできません。ただ同時に、早い時期から“反対側“も見てしまいました。 


A:
“反対側”とは?


W:  冒険もなく、真の交流もない世界。ロックスターでいなければならないような世界です。
 

A: あなたの言う冒険とはどういうことですか?

W:  美しい野生の地に行くことです。ボートに乗って行ければ、なおいいですね。私はよくセーリングをしますが、海の上を自由に動けるのは最高の冒険です。
 

A: 数年前、パタゴニア・オーストラリアとサーフィン部門のアンバサダーとして契約を結びましたね。

W: パタゴニアはずっと気にして見ていた会社でした。以前、漁師達が載っていたカタログがあったのですが、彼らはとても古い道具を身につけていました。このような写真を掲載するということ、その姿勢自体が、人々の生活様式に合う道具を作っている会社であることを示しています。パタゴニアのもの作りは常にこうした方針に基づいているんです。
 

A: 生涯を通して一流のサーフブランドで働いてきた後ですから、大きな変化でしたね?

W:  他のブランドはまるでサーフィンを広めたくなかったかのようでした。その点、イヴォン・シュナード(パタゴニアの創業者)はとても賢かった。 彼はいいお手本を見せてくれましたが、すでにイメージも体制も確立された他ブランドがパタゴニアのレベルまで変化するのは難しいと思います。でもまだ発展中の会社であれば可能でしょう。環境保護の問題は人々の意識を変えるのです。 
 

A:70年代からシングルフィンといえばあなたの名前が出てきました。シングルフィンの良い面と悪い面を教えてください。

W: シングルフィンはとても速い。素晴らしいスピードが出ます。そして独自の自由さがあります。しかし、レールが入りづらいなど、他のボードと同じように限界もあります。波がフラットに近い時にはサイドフィンがないためにオフザトップは難しくなります。またチョッピーな波であればスピードが出やすくなりますが、波の面が荒れているためターン時にレールを入れるのが難しくなります。 
 

A: 今あなたが作っているシングルフィンと、70年代にあなたが乗っていたボードは、どれくらい似ているのですか?

W:  とても似ています。同じテンプレートで、レールとロッカーが少し違うだけです。70年代に私が削っていたボードは、一番幅の広いポイントがテール寄りにありました。ボードはとても薄く、テールは大きくて丸く、ノーズの方がテールよりも狭かったのです。このボードデザインは後ろ足でのコントロール性を飛躍的に高め、ボードの長さを実際のサイズよりも短く感じさせてくれました。まるで7’10” のボードに乗っていても6’10”のボードに乗っているような感覚です。ですが、現在私が作っているボードの方が優れています。切り立った波でのテイクオフは素晴らしく、チューブも美しく決まります。最近の若者たちはチューブのことを“バレル”と呼ぶようですが、私の中ではいまだに“チューブ”です(笑)。
 

A: 普通のスラスター(現在普及している3本のフィンによるデザイン)ではなく、シングルフィンを選ぶ理由は何ですか?

W:  最も危険、もしくは難しいテイクオフの時に、私はシングルフィンに乗ります。色々な種類のサーフボードを持っているくらいラッキーな人であれば、コンディションや気分によって乗り分けるものです。もちろん私だってシングルフィンに乗る気分ではない時もあります。


A:
サーフィンの流れるようなスタイルは好きですか?


W:  サーフィンとは、最初から終わりまで流麗な一つのムーブメントであるべきです。なぜなら、サーフィンにはリズムを必要とするからです。自然を見ればわかります。林に向かって風が吹くと、風が通り抜けるまで木々は流れるようにそよぎます。サーフィンも同じなのです。ケリー・スレーターが特別な存在なのは、彼がサーフィンの全てを表現しているからです。彼の持っているパワーとリズムは、他の誰にも真似することはできません。 
 

A: 70年代を振り返ってみて、心の在り方といい道具が、あなたを成功に導いたと思いますか?

W:  そうですね。ですが、当時、いいボードを作ることは狙ってできたものではありませんでした。まぐれだったとも言えます。私は自分がやっていることを少しも理解していませんでしたから。良いサーフボードに求められる要素を理解していなかった。そのため、たとえマジックボードを手にすることができたとしても、そのボードを再現できなかった時もありました。
 

A:サーフィン業界では機械を使ったシェイプも大部分を占めてきましたが、今でもハンドシェイプをしていますか?

W:  いつもではないけど、大抵はそうです。機械のシェイプでは、ボードがより厚く、よりかさばります。機械で作られた板をただフィニッシュさせるやり方は、私は好きではありません。手で作るほどには満足感が得られませんし、“シェイプ“というよりは“フィニッシュ“だと思うのです。機械は正確に板を複製できるとみんな思っていますが、そんなことはありません。もともとスローな性格もありますが、私はシェイプにものすごく時間をかけます。刑務所のように、食事がシェイプルームのドアの下から運び込まれる時さえあります(笑)。
 

A:今でも毎日サーフィンしていますか?

W: サーフィンをし過ぎるのは好きじゃないんです。習慣になってしまうのは嫌なので、週に2〜3回がいいですね。それに歳を重ねるたびに体もきつくなってきています。背中が痛くなり、肩や首も・・・痛いんですよ(笑)。ただサーフィンすることだけが人生ではありません。私はセーリングも好きなんです。サーフィンと同様、セーリングにもたくさんの意味がありますからね。


A:
ずっとセーリングもしてきたのですか?


W: 漁師の家で育ったので、子どもの頃からやってきました。年輩のサーファーにはセーリングや太平洋横断の旅をする人たちがたくさんいましたし、ハワイやカリフォルニア出身のセーリングフリークやボートのデザイナーをする人たちも多くいました。セーリングはとても難しく、一晩中起きていなければならない時もありますし、タフじゃないとできません。集中力が必要で、ボートを失う可能性もあります。でも、生きている限りは新しいことを学び続けられます。サーフィンも本来は奥深い側面をもっているのですが、今では表面的になってしまいましたね。プロツアーのせいか、サーフィンから人生のイロハを学ぼうとする姿勢は少なくなり、みんなサーフィンをすることだけしか考えていません。
 

A:ビクトリアでもサーファーが増えているようですが、激しさを増す人混みにはどう対処してきましたか?

W:  混雑してきたのはここ6〜7年のことです。南の方は今でも自然が残っていますよ。昔はもっと静かで素晴らしかったのですが、近年は商業的になってしまいました。サーフ人口は増加しましたが、ここで育ってきた私たちにしてみれば、好ましい状況ではありません。サーフ人口が増えたことで地域の繋がりは損なわれてしまいました。土地代や物価の上昇で生活を営むことが難しくなり、古い世代の人たちは住むことができなくなってしまいました。規則や法令も溢れています。私が息子の年の頃にはとても自由な土地柄だったんです。
 だからこそ私はセーリングをしているのです。混雑と喧噪から離れるために。この海岸をセーリングすることは、かつてのサーフィンに似ています。危険性もあれば風もすごい。誰も怖がってやろうと思わないのです。昔はこの辺りでサーフィンする時は、誰か一緒にサーフィンする人を探したものです。サメへの恐怖もありました。私は一人でサーフィンをするのを好むように見られていますが、そんなことはありません。当時は、誰か一緒に入ってくれるようにお願いしたんですから。
 確かに混雑は、昔ほどにサーフィンをしなくなったひとつの理由です。ただ混雑しているだけではなく、波を取り合う挑戦的なサーファーの態度も気になるのです。かつてはみんな順番を守り、何のプレッシャーもない理想的な状態でした。互いに対抗的ではなく、一緒にサーフィンをして、お互いを知っていました。みんなが互いに気を配り、ボードが流されてしまった人がいれば大丈夫かどうかをちゃんと確認していたんです。
 

A: ところで、ワイプアウトに関する思い出深い話はありますか?

W: このビーチの約2マイル沖に行ったところで、20フィートの波に乗った時のことです。波に乗ろうとパドルし始めた時にはもう遅く、フリーフォールの状態でワイプアウトをしました。波の面を転がり、スープ(波が崩れた後の白い泡)にもみくちゃにされて水中深く潜ることができず、波の力に翻弄されてしまったんです。息ができない状態で、ただ耐えて耐えて...ほんとうに死ぬと思いました。死ぬ直前になると白い光を見ると言いますよね? その状態を経験してしまったんです。
 それでもどうにか水の中へと潜り込み、海面に顔を出すと、ボードがすぐ横にありました。助かった。そう実感しましたね。
 このワイプアウトで背中も筋肉も神経も全てがぼろぼろになり、その後3ヶ月間は海に入れませんでした。治療の際には、正面衝突事故に遭った人のようだと言われたほどに状態は悪かったのです。1974年か75年か、もうだいぶ前の話しです。
 あの白い光は何だったのだろう。あの時、いったいどのような状態にいたのだろう。体が良くなっても、そんな思いにとらわれ続けました。思い出せることといえば、もうろうとしていた意識が突如として明確になった瞬間から後のことだけです。現実の世界に戻ってくることができた。生きている。あの時、そう自覚できたのです。それ以前のことは今も思い出すことができません。
 

A:あまりのショックからサーフィンをやめようとは思わなかったのですか? 

W:  ありません。いちどの人生ですからね。ひとつの事故を理由に、何か諦めることはできません。より賢く、より落ち着くことができるようになるだけのことです。
 

A:あなたは憧れのサーファーとしてよく見られると思いますが、有名人のような気分ですか?

W:  私の生き方を見れば、特別な生き方をしているわけではないのがわかると思います。“レジェンドサーファー”と呼ばれている、そんな状況に出くわすこともそうありません。有名人の生活にはいつも不信感を抱いてきたし、本物じゃない気がします。注目されるのも好きではありませんから。 


A:
今後の計画は何かありますか?


W: 行ったことのない、まだ自然のままの場所に行くことです。開発された場所がどんなことになってしまうのか、もう充分に見てきましたからね。突然何千人と人口が増えて海の中には怒った人たちばかりとなり、ビーチには観光客のための公園やサーフキャンプ場ができてしまう。私はそういった全てのものに反対をしているわけではないのですが、自分でそういうものを作るのは好みません。ただ、人の手が加えられていない場所が好きなのです。
 

Wayne Lynch Profile
1951年 オーストラリア・ビクトリア州ロルネ生まれ。
1967年から1970年のオーストラリアン・サーフィン・チャンピオンシップで優勝。
ロングボードからショートボードへ移行する革新的なムーブメントが起きた70年代後半をティーンエイジャーとして経験。サーフィンに流動性を取り入れ、8の字形のトラックを水面に刻み込んできた。
コンテストシーンでも成功したが、レイドバックしたサーフィンを愛する姿勢が何よりも知られている。
名シェイパーとしても知られ、80年代から90年代のサーフィン界では、彼が初期に手がけたデザインが追求された。近年では70年代に作ったボードを基盤にした現代版シングルフィンコレクションを発売。
パタゴニア・オーストラリアとサーフィン部門アンバサダーとして契約。