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特徴

2011
Issue 38
日本のスキー史を切り拓いた男
By Bill Ross

日本スキー史100年

金谷山は大きな山ではない。夏場でもリフトは動いていて、来場者達を山頂まで運んでいる。そして山頂からはコンクリートのトラックが走っていて、ホイールボブスレーを楽しむことができる。山のふもとには日本有数のBMXコースがあり、楽しい場所であることに変わりはないが、スキーを楽しむには物足りない。それは僕がスキーを覚えた、米国内陸部の小さな丘のスキー場のようだ。

新潟県上越市の西側に位置するこの小さな山へ向かう道中には、ある銅像と記念館があり、この場所の歴史的な重要性を物語っている。

1911年1月12日。オーストリア=ハンガリー帝国軍のテオドール・エドラー・フォン・レルヒ少佐が金谷山をスキーで滑走し、日本におけるスキー史の幕を開いたのだ。それまで雪山を滑る文化がなかった日本の軍人達にとって、ひとりで雪山を登り、さっそうと滑り降りてくるレルヒ少佐の姿は、宇宙人が空からやってきたかのようなインパクトを与えたであろう。事実、その姿を目の当たりにした軍人達は両手をあげ、『万歳!』のコールで彼を迎えたという。

だが軍人達もただの見物客ではなかった。翌日にはレルヒ少佐によるスキーレッスンが開始され、日本人によるスキーの歴史が本格的に始まった。そして2011年1月、日本におけるスキーの歴史はちょうど100周年を迎える。

このタイミングで日本におけるスキー史が幕を開けたのには軍事的な背景も関係している。当時の日本は圧倒的に不利と思われていた日露戦争に勝利したばかり。封建社会に別れを告げたばかりのアジアの小国が、どうやって強国ロシアを倒し、次々と軍事的な成功をおさめたのか、その理由に世界中が注目していた。そして世界中の軍隊が日本に軍事視察におとずれ、ノウハウを学ぼうとしていたのである。

レルヒ少佐もその軍事使節団の一員であった。その彼は、旅の荷物にスキーを2組持ってきていた。昨今の日本を訪れるパウダージャンキー達と同じく、どこかで日本の豪雪について聞いていたようだ。 到着前はスキーを教えることは考えていなかったようだが、やはり旅先にはいろいろと予想外の出来事が待っているものである。

レルヒ少佐の赴任地の高田では、ドイツ語の堪能な中将、長岡外史がレルヒにスキーの教えを請うべく部下にスキー技術の研究を始めさせていた。ただならぬ白ひげがトレードマークのこの男は当時の十三師団長であり、北欧への視察経験などから、早くからスキーの存在を知っていた。長岡はスキーの技術が軍隊に役立つと確信していたようで、レルヒ少佐ほどスキーを学ぶのに適任な人材はいないと考えていたのだろう。

まだ外国人を街中に見かけることなど非日常の時代である。レルヒ少佐は雪国のこの小さな街での生活をどう感じていたのだろうか? 実際、多くの人から注目されていたようだが、当時の地元の高田新聞には、高田市民は日本を代表するにふさわしい振る舞いを求める記述が残っていて、特に裸足で外を歩きまわったり、屋外で小便をしないようにと注意をうながしている。でもきっとレルヒ少佐はそんなことは気にしなかっただろう。当時の写真を見ると、その多くには大柄でよく笑っている姿が写っている。

そしてレルヒは滑り続けた。赴任先の高田にいた第58歩兵連隊の隊長で、海外でのノルディックスキー経験があった堀内文次郎と共に、レッスンを実施するうえで必要なスキーを作らせた。自身が持ってきた2組のスキーをもとに東京の兵器庫にスキー制作をさせ、その2週間後にはレッスンを実施するために必要な本数のスキーが高田に届いていた。

高田では毎週2〜3回、レルヒ少佐によるスキーレッスンが実施された。近隣の南葉山や小千谷エリアでのスキーツアーも実施し、1912年には北海道の旭川でスキーレッスンを開催した。それだけでなく、富士山でのスキーにも挑戦。3,600メートルまで登り、滑走した。ちなみに当時の日本にはまだ冬山を登る習慣はなかった。レルヒ少佐がいかに紳士で、そして本物のスキーバムだったかがうかがえる。

レルヒ少佐はアルペンスキーの祖と言われるマチアス・ツダルスキーの弟子であり、彼の伝えた滑りは今日のアルペンスキー技術とは少し違いがある。現在のスキーはノルウェー地方を起源にすると言われ、ストックを2本使うが、ツダルスキーは短めの板と
本のストックを使いオーストリアのアルプス急斜面を滑っていた。 

ツダルスキーは知的で、スキーへの情熱を持った強い男であったといわれるが、現在主流となっている新しいスタイルの滑りを公に否定していた。それゆえに、ストックを2本用いてスピードをコントロールする滑りを提唱していたオーストリアの将校、ジョージ・ビルゲリとは、生涯を通してバトルを繰り返す犬猿の仲だった。今日のテレマークスキーの第一人者ポール・パーカー曰く、テレマークスキーが長い間世間に認められなかったのもツダルスキーに責任があり、『きっと嫌なヤツだったに違いない』と証言している。

そのツダルスキー式の滑りでは1本のストックを舷のように用いて、ターンの内側を引きずりながらスピードをコントロールする。ちょうど踵を浮かせないテレマークのような、少し不自然なスタンスになる。 結局、 世間が新しい滑りに移行していくなか、ツダルスキーは自分の信念を曲げることなくその生涯を終えた。最後まで自分の滑り方が正しいと信じていたようだ。

幸い、レルヒ少佐はツダルスキーほど頑固者ではなかった。オーストリア軍准将であり、レルヒ少佐の研究の第一人者であるハラルド・ペッヒャー博士によると、『レルヒ少佐は教えるのがとても上手かった』ようだ。そして、『彼は人に教える技術にとても長けていただけでなく、彼の言葉をきちんと伝えられる通訳もつけていた』ので、的確に技術を伝えることができたようである。彼はレッスン中はフランス語で話し、フランス語が堪能な山口十八大尉が日本語で伝えていたのだ。

そして間もなくレルヒ少佐は『ムッシュ・メトゥーレ スキー』の愛称で親しまれるようになる。なぜ『メトゥーレ スキー』なのかというと、それはフランス語で『スキーを履きなさい!』という意味で、レルヒ少佐のレッスン中に必ず聞かれる言葉だったからだ。

そしてレルヒ少佐がレッスンを始めて間もなく、軍人達だけでなく、その婦人達もレッスンを受けるようになった。彼が金谷山を滑り降りてからわずか1ヶ月後の1911年2月には、日本で最初にスキー連盟が発足、6,000人のメンバーを集めた。

1920年代になると、今日でも有名なスキーリゾートがオープンする。北海道の旭川など、「日本で最初にオープンした」とうたうリゾートはいくつかあるものの、ski100.jpによると山形県の五色温泉スキー場が日本最古のスキー場である。1947年には長野県の志賀高原スキー場と北海道のモイワスキー場に日本初の電動チェアーリフトが設置される。他のスキー場も同じ時期に電動リフトを開設し、『日本初』と自負するリゾートがあるが、この時期に日本におけるスキーがめざましい発展を遂げたことに間違いはない。

一般的には、1980年代のスキーブームが来るまでスキーは富裕層の娯楽であったと言われている。しかし初期のスキークラブのメンバー構成を考えると、それまで冬季にすることのなかった一般市民も、ようやく冬季の楽しみができたことを喜んだと思われる。それだけでなく、スキーの発展は高田のような豪雪地帯にて、それまでカンジキに頼っていた雪上の移動方法を大きく変えたといえる。

日本中のスキー普及に努めたレルヒ少佐の功績が忘れられることはなかった。日本軍のリーダー達とも親しくし、英雄として讃えられた。長岡中将とは生涯の友好を築き、その友情は1933年の長岡が死を迎えるまで続いた。日露戦争の英雄と呼ばれた乃木希典は、レルヒ少佐による富士山でのスキー挑戦にインスパイアされ、詩を詠んだ。明治天皇の後を追って自らの命を断った乃木の葬式にも呼ばれたという。

そしてレルヒ少佐は海路で韓国へ渡り、アジア諸国を旅しながらヨーロッパへと戻って行った。帰国後は軍隊に戻り、素晴らしいキャリアを築いた。引退後は水彩画や書籍の執筆などに没頭し、1945年に息を引き取った。母国では軍隊での功績は讃えられたものの、日本における彼のスキー普及の活躍を知るものは誰もいなかったようだ。

新潟県上越市や妙高高原から長野県野沢、志賀高原エリアまで、一本杖のレルヒ少佐の銅像やその功績を讃えた記念碑などをいたるところで見かけることができる。上越市では『レルヒさん』なるゆるキャラがスキー発祥100年の普及活動に尽力しており、妙高のある一家は息子を礼留飛(れるひ)と名付け、スキージャンプで活躍しているという。

日本におけるスキーの発展のきっかけが、白ひげの軍人とオーストリアの情熱的なスキーヤーを引き寄せた時のいたずらだったというのはとても感慨深い.

日本スキー発祥100年年表


1911年(明治44年)  テオドール・エドラー・フォン・レルヒ少佐が新潟県高田(現・上越市)にてスキーレッスンを開始。 

1912年(明治45年) 新潟県高田にてカザマスキー創業。その後、長野県にて小賀坂スキー製作所創業。

1923年(大正12年) ミズノが国産スキーの開発を開始。

1930年(昭和5年) ハンネス・シュナイダーが野沢温泉にてアールベルグ技術のレッスンを展開。

1956年(昭和31年) 第7回冬季オリンピック(イタリアコンチナ・ダンペッツオ大会)で猪谷千春がSLで銀メダル獲得。日本人としてスキー競技初のメダリストに。

1970年(昭和45年) 植木毅と星川和男がマッキンリーにてファースト・ディセントに成功。

1970年(昭和45年) 三浦雄一郎がエベレストのファースト・ディセントに成功(一部パラシュート)。

1972年(昭和47年) アジア初の第11回冬季オリンピックが札幌で開催。ジャンプ競技の笠谷幸生、金野昭次、青地清二が金・銀・銅メダルで表彰台独占。

1990年代初期 若者の間でスキーが流行。

1993年(平成5年) スキー人口が1770万人を突破。

1998年(平成10年) 第18回長野オリンピック開催。フリースタイル・女子モーグルで里谷多英が金メダル。

2006年(平成18年) スキー人口が610万人に減少。

2008年(平成20年) 上村愛子が日本モーグル界初のワールドカップ総合優勝。