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特徴

2008
Issue 22
A Wild Dolphin Ride
By Carlos Barbosa

「三宅島に行ってきて」。そう言われたとき、島について何も分からず、火山があることも、イルカがいることも知らなかった。そこが東京だとことさえも知らなかったのだ。だか、三宅島での体験は、僕の人生を大きく変えた。

僕が始めて三宅島に行ったのは1996年の10月。来日して、初めての年だった。スポーツクラブのメンバーを引率してほしいと頼まれたのだ。そうして、竹芝桟橋から大型フェリーに乗り込んだ。朝4時30分になると、鳥のさえずりの放送が船内に流れ、下船する時間だと知った。

降り立った瞬間から三宅島が大好きになった。この島には、なにか不思議な空気が漂っていた。海岸につくまえに、すでに、島へ引っ越すことを考えたほどだ。思い起こすと、すべてが不思議な展開だ。

透き通るような青い海に飛び込むと、南から栄養素と暖流を運ぶ黒潮のため、水温が温かかった。透明な水とマリンライフが、故郷のブラジル・リオデジャネイロを思い起こさせた。

東京では皆、ジャケットやマフラーに身を包んででいる10月なのに、ここでは海水パンツひとつという出で立ち。シュノーケルをしたあと、バンに乗り込み 漁船へ。10分後には、イルカがいるという岩のような御蔵島へと向かっていた。

マスクと足ヒレをつけていると、突然ガイドが「入っていいよ、 入っていいよ」と叫びだした。僕らは御蔵島の海岸から約2km、三宅島から18kmも離れた海の真っ只中にいた。皆はボートから飛び降り始めた。

最後の一人になりたくなかったので、僕もついに飛びこむ。もし何かあったらどうしようと不安だった。潮の流れがきつい、三宅島まで泳ぐなんてことは できない。御蔵島までなら泳げるか? でも、ただの岩山のようで人が住んでいる家などありそうもなかった。

そんなことを考えながら海に浮ん でいると、何かとても大きなものが目の前を泳いでいる。その物体は、体長4mものバンドウイルカ。僕の事を偵察しているのが、チラッと見える。正直、怖く なった……。

 30分たっても、疑った。恐れていたのではなくて、夢中になっていた。ボートまで泳ぎ、数分休み、また海に潜るといったこと を何度を繰り返した。疲れて気を失いそうだった。でも、イルカが回りにいるかぎり止められなかった。何度も、何度も飛び込み、できるだけ長く息を止めて、 驚きの生物と一緒の時間を過ごしたかったのだ。

ダイビング三昧の生活

イルカとの出会いは、僕の人生を変えてしまった。翌年の3月、つまりイルカと泳いでから4ヶ月後には三宅島の住民になっていた。「マリンベース」という会社で、ドルフィン・スイムのガイド兼、ダイビング・インストラクターとして働き始めたのだ。 美しい海に囲まれた、緑豊かな森。三宅島には心温かい人々がいる。外国人と感じるどころか、僕が日本語を結構話せたので、島のおばちゃんたちは地元の人と思ったほどに馴染むことができた。

僕はドルフィン・スイムをより安全にしたいと思った。最初のシーズンは1隻につき平均15人、多い時で30人のツアー客を乗せた。スタッフは船長と僕。船長はボートと、航海、ボート上のお客さんの管理を担当し、海に入ると、それは僕の担当となった。

誰もがツアーに参加できるが、次第に日本人ツアー客たちが、泳ぎがあまり得意でないことがわかった。そこで僕は自分がツアーガイドというよりも、ライフガードなんだだということに気がついた。

イルカのストレスを減らすため、乗船客の人数とボートの数を規制する話し合いをした。結果的にそれはイルカにも、人間にも優しいツアーとなった。

「マリンベース」は当時、島で一番大きいドルフィン・スイムのツアー会社だった。ボートさえ所有していなかったが、毎シーズン1万人の人が野生のイルカと泳いだのだ。夏の収入が少ない漁師は、ドルフィン・スイムに興味を持ち始めた。

煙に消えた島

ドルフィン・スイムのツアーが盛んになると、「マリンベース」も成長していった。 1999年には会社のオーナーは、温泉宿や民宿を開いた。そして25人乗りのモーターボートを購入した。2000年シーズンへの期待は大きかった。三宅島は注目を集め、ツアー会社は人材を雇い、若者は島を訪れた。

だが、自然は誰が一番の威力者であるか、人々に教える方法を知っている。2000年6月、大きな地下活動が記録された。船で東京の事務所に向かって いるとき、同僚のスタッフが以前の噴火口の近くで、地震が起こったことを取り乱した声で連絡してきた。

溶岩が噴火口から流れているのか聞 くが、彼はそんな様子はないし、何も感じないと答えた。ある人は計器が壊れていると思ったり、お年寄りは非難をしはじめたり……。島は大混乱していた。そ の夜、フェリーで三宅島に引き返した。見かけは変わりないものの、何かがおかしいと感じた。

 間もなく、人々が恐れていたことが現実になっ た。7月14日、爆音とともに噴火が起こった。高さ8000mの噴煙があがり、島の周辺に立ち込めた。島の半数以上の人が、学校の体育館などに避難。灰と 火山ガスのため、島民全員が何らかの屋内に非難しなければならなかった。

その後も地震が数回起こった。昼間だというのに、火山灰のため、 あたりは夜のように暗かった。灰の雨が降り、コンクリートのような泥濘みになった。噴火口周辺では、木々も倒れていた。道は、車でも何でも飲み込んだ火山 灰が、すべてのものを混ざりあわせ固まっていた。

大きな噴火があった週は、本当に大変だった。その後は、静まり返った。僕らは屋根や家のなか、道路の灰を取り除かなくてはならなかっ た。雪かきをしているようだっが、雪とはちがい灰は黒く、重く、溶けない。
噴火が収まり、落ち着きはじめた。すべてのツアーは中止され、ほとん どの道具が修理が必要だ。会社の宿泊施設は使えず、島の反対側に家を借りる。

そ してすべては順調にすすんでいたので、タイに休暇に行った。電話やメールからも開放され、ロッククライミング、カヤッキングそしてデトックスにあけた。一 週間後、メールをみて、全島民が島外に避難したのをしる。すべての人が2日猶予を与えられ、島をでていったのだ。ということは、僕はすべての物を失った。

  島にいると情報が限られていて、詳しいことがわからなかった。どうやら、火山ガスが発生し、強制避難命令がでたらしい。夢であるプロの水中カメラマンにな るために、今まで多くの機材を買い集めてきた。最近、雑誌などに掲載されるようになったのに、僕のカメラ機器は灰か泥にまみれているんだろう。

島にいると情報が限られていて、詳しいことがわからなかった。どうやら、火山ガスが発生し、強制避難命令がでたらしい。夢であるプロの水中カメラマンにな るために、今まで多くの機材を買い集めてきた。最近、雑誌などに掲載されるようになったのに、僕のカメラ機器は灰か泥にまみれているんだろう

三宅島帰島への、長い道のり

何ヶ月もかかるとか、数週間だとか、いろいろな情報が飛び交い、事実のところ、いつ島に帰れるのか誰もわからない。10月になると、帰島するのは何年も先のことになると聞かされた。東京で何もしないでいるより、何かしようとアメリカの大学に行くことにした。

アメリカでの生活は充実していたが、三宅島の人々、イルカたちのことを忘れることができなかった。2002年、卒業間際に日本での1ヶ月間の水中調査と工事計画に仕事を得た。すぐに帰れるとは思っていなかったのだが、正社員として日本で働くことになったのだ。帰国して以来、三宅島がどうなっているかを確認するために訪れてみたかった。少しでも慰めになるだろうと思い、ダイビング、イルカと戯れるために友達と御蔵島へ向かった。イルカと過ごす時間は最高だ。たが、目の前にあるのに行けない、モクモクと煙を上げている三宅島を見るのがつらかった。

2005年になると、ようやく帰島を許された。友人の実さんは、すぐに島に帰り、実家の家を直そうとした。僕とガールフレンドのユリは彼を手伝うために、三宅島に行くことにした。冬だったので波が高かったが、島が前と同じように活きいきとしているのを見るのは嬉しい。実さんも島に帰り、元気そうだ。他の人たちも、少しずつ島へ帰り始めていた。

持ち物が埋まっているか、前に住んでいた場所に行ってみたが、何も残っていなかった。トラックさえ火山の酸で溶けていた。樹木が、箸のように突っ立っているばかりの光景が広がっていた。

島に完全に戻るまで、年に数回三宅島を訪れた。ユリとともに、イルカと泳ぐ体験と、復興する島を見てもらうために友人たちを招いた。「マリンベース」や、実さんのクラフトショップが再度起動に乗るのは時間の問題だ。

ESSENTIAL INFO

GETTING THERE
東海汽船(www.tokaikisen.co.jp)が運営する夜行フェリーで行くことができる。フェリーは東京・竹芝桟橋から出発する。竹芝桟橋から三宅島までは6時間ほど。東宝航空(www.tohoair.co.jp)は青ヶ島、伊豆大島から、利島、三宅島、御蔵島、八丈島、青ヶ島に飛ぶヘリコプターを運行している。噴火以来、羽田からのフライトは休航されている。

WEB CONNECTION

Miyakejima Tourism Association: www.miyakejima.gr.jp (Japanese only)
Miyakemura: www.miyakemura.com (Japanese only)