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特徴

2010
35 号
流刑地で自由を感じる
By William Ross

 新潟の佐渡島をパドリングで一周する一週間 

不景気も悪いことばかりじゃない。腕の疲れも忘れ、顔をふせて、風と波に負けないよう必死でパドルをしながら思った。カヤックは波をすべり、弾力性のあるフレームが上下するたびに水しぶきを上げていく。 

もし仕事がうまくいっていれば、まる一週間を佐渡でパドリングすることなんかまずないだろう。僕らは小木港からスタートし、あともうすこしで目的地にたどり着く。僕らが成し遂げたことを考え、僕は笑みをうかべた。そしてその時、この一週間、携帯の電源すら入れていなかったことに気がついた。 

僕らのグループをリードしてくれたのは近所に住んでいる山岳ガイドで、いつもアドベンチャーをしている中野豊和さん。渡辺朋和さんは新潟市で公務員をしており、比較的休みがとりやすいようだ。田中順さんは神戸市で教師をしていて現在は夏休み中。そして気分はいつだって自由人の僕というがグループの顔ぶれだ。 

  
  
1日目 
    
旅は新潟の直江津港から佐渡島をめざす2時間半のフェリーから始まった。田中さん以外はみんな佐渡島に行ったことがあった。しかし、日本で六番目に大きいこの島をカヤックで一周したことはなかった。 
  
僕らは簡単にバックパックにはいる、持ち運びのラクな折りたたみ式のカヤックを使った。これならバスなどにも乗れ、文明社会への復帰も簡単だ。 

 フェリーが島に到着すると、早々にカヤックを組み立てはじめた。近くでは、小木を訪れる観光客に人気の高いたらい舟を漕ぐ女船頭さんたちが興味深く見守っていた。一日中短い丈の着物、エプロン、頬かむり、手袋、島のシンボルであるわら帽子といういでたちで洗濯桶をこぐ彼女たちは、いとも簡単に、そしてエレガントにオールで8の字を描きながら、観光客をたらい舟にのせて港周辺を一周する。 

アルミフレームとハイパーロンの船底を張り、ドライバッグをあちこちにセットアップした。島に上陸したのは、世界で活躍している創作和太鼓グループの鼓童が主催する、毎年恒例のアース・セレブレーションの初日。僕らが島の最南端をパドルする最初の二日間は、鼓童の太鼓の音が僕らを伴走してくれるに違いない。いよいよ出発! が、その前にフリーマーケットへ立ち寄り、おいしいカレーライスと冷たい飲み物で腹ごしらえをした。 

初日は5キロ弱のパドルをしただけで早めに切り上げた。そのほんの短時間で僕らは岩ばかりの入り江、小さな小島、海食洞という島の一端を見ることができ、この島の美しさに驚かされた。 

  
 
宿根木という町にある、岩が多い港へ入った時、またもやたらい舟と出くわした。漕いでいるのは女船頭さんではなく、釣り針をさげた竹竿をもつ年配の男性だった。この地域では、いまでも日常的にたらい舟であわびやサザエ漁をしているのだ。 
  
「俺、魚釣りにいくよ」と最初に渡辺さんが言い出した。これから一週間のパターンがこのようにして決まっていった。中野さんはシュノーケリングで貝を採りにいくと言い出し、田中さんは本を取り出した。そして僕はあまり期待しないで鯵釣りにトライした。 
    
釣果は鯵二匹とあわびが二つ。そして喉がカラカラになった。そこで宿根木へ冷たいビールの買い出しにでかけた。トリップの前半は炎天下、強い追い風をうけながらパドルしたので、ビールの買い出しもこの一週間のパターンとなった。宿根木の町は趣のある古い建物、古い井戸、家にはさまれた路地などがあちこちにあり、カメラを持ってこなかったことをとても後悔した。
 ビールを買う時には、だいたい漁師の人に酒屋をたずねた。しかしその場所へいってみると普通の一軒家しか見当たらない。看板もなく、どこにも酒屋らしきものはなかった。が、この一軒家が酒屋なのである。こうして島特有の事実に気づいてからは、佐渡のどんな小さな村でもビールにありつくことができた。  
 
 キャンプ初日の夕食づくりは、いつもスムーズにはいかない。メニューはどうするか、どのようにつくるのか、シェアするにはどれだけつくればいいのか、などと多くの疑問が生じるためだ。
 夜が更けると、とても大きなダンゴムシがあらわれた。やつらは落ちていた魚の頭に群がりはじめた。すると突然に中野さんが「痛い!」と声をあげた。なんとやつらが噛んできたのだ! たまったものではないと僕らはテントの中へ入り、ダンゴムスが寝袋の上を歩く音を聞きながらかゆい一夜を過ごすことになった。 
  
  
2日目 
  
目覚めると虫はいなかった。しかしまな板、貝、魚の骨など外に残したものは、すっかり平らげられていた。僕らはテントを片付け、ボートに荷物を詰め、地図を見て行き先を確認し、冒険へ出発するという日課をスタートさせた。最高だ! 
  

佐渡の最南端をパドル中、今まで出会った人よりも高齢の人がたらい舟で、底がガラス張りの箱で海中をみながら魚介類を採っていた。驚かすようにいたずら好きの渡辺さんが「おはよう!」と大きな声であいさつをして、漁師を驚かしていた。 

このエリアの岩肌は荒々しく、まるで月にでもいるかのように思えてくる。まぎれもなく、シベリアからくる大寒波の影響に違いない。その結果、チャンネルやアーチのある、広大なすばらしいロックガーデンをシーカヤッキングで散策できる。一つだけ難点なのは、このあたりをパドルするとボートに穴が開きやすいのだ。実際、渡辺さんのボートの進みがおそいと思ったら、船底に大きな穴があいていた。「半分水に浸かってるぞ!」と中野さんは叫び、陸にあがって水をすくい出し、船底をパッチするようにアドバイスをした。 

佐渡は、二つの島が斜めに寄り添っているようなユニークな形をしている。二日目は5キロのパドルと、真野湾を越えることが目標だった。たいした距離ではないのに、目指す海岸がまだ先にあることから僕は二つのことを学んだ。一つはパドルをしても、まるで停まっているように進まないこと。二つ目は、日本人のカヤックガイドはまるで機械のように漕ぎ、休憩する必要がないということだ。もちろん冗談だけど、僕が休んで水分を摂っていても、中野さんは休憩することなくパドルし続けていた。しかし向かい風では挽回するつもりだ。 

  
湾をようやく越えたころにはクタクタで、あまり人が来そうにない公園で僕らはキャンプをした。周囲にはうるさい警察官も、作業中の農家の人も、花火をして騒ぐ子供たちもいない。キャンプ場の周りには誰もいなかったのだ。佐和田港に帰ってくる漁船を静かに見守りながら、田中さんと僕は冷たいビールで乾杯し、渡辺さんは芋焼酎を飲み、僕らはダンゴムシのいないテントでぐっすり休んだ。 
  
  
3日目 
  

この日は有名な佐渡砂金山がある相川と、荒削りの断崖が観光客に人気の尖閣湾を通過する。ベテランのカヤッカーであるイギリス人の友達は、かつて上下に激しく揺れる波に尖閣湾で遭遇し、ボートを丘まで引き上げなければならなかったが、幸い僕らは穏やかな南からの追い風で、安全に、不思議な色をした峡湾美を堪能することができた。 

尖閣湾へ向かう前、相川の町のスーパーマーケットで買い物をしておいたので、夜の準備はできていた。馬蹄の形をした砂浜のビーチにテントをはり、シュノーケリングを楽しんだ。大きなテントや、たくさんあるギアを見ながら、いちどカヤックに積み込むんでしまえば、後は荷物を運ぶ心配をする必要のないシーカヤッキングのメリットを思った。しかも想像以上の荷物をカヤックの中には積むことができる。 

4日目 
この日は、島の北端を目指し、そして外洋の外海府から本州に面する内海府へ移動するため、長い一日になると予想された。しかも横断している途中、海はすこし荒れてきた。そこへ突然「風がくるぞ!」と叫びながら、わら帽子をかぶった漁師が突然あらわれた。周辺にいた他の船も大急ぎで港に帰っている。僕たちも狂ったようにパドルをして、波を荒立てる風が来る直前、石名という小さな町の防波堤の中へ非難した。 

  
漁師の人にお礼を言って、風が収まるのを待ち、改めて出発することにした。ロシア語や韓国語の文字が書かれたプラスチックのごみがちらばっている海岸の、名もない滝のそばてランチにした。中野さんは白樺の皮が巻かれたものを見つけた。「これは浮きなんだ。前に読んだことがある」と彼は言った。「多分ロシアか朝鮮からきたんだろう」 
  

再度出発をして北に向かうと、亀を思わせる岩のある、佐渡最北端の大野亀に到着した。崖はとくに高さがあり見事な眺めだった。この場所を、隼が猛スピードで飛んでいくのを見ながら通り過ぎた。進行方向にはまた亀の形をした岩、二つ亀がある。しかしそのためには、ボートを引きずって、3メートルほどの砂浜を越えなければならなかった。 

5日目 
雨、風と戦った一日だった。島の先端の南側にある森でキャンプをした後、向かい風と激しい雨に見舞われ、早めのランチと釣りをするため鷲崎までパドルした。前年の冬、外海府からの波によって破壊されたという大きなコンクリートの防波堤を目撃。他のセクションでも、爆弾をおとされたかのようなダメージを見ることができた。たしかに風は強い。が、風と波が大きなコンクリートの壁を捻じ曲げ、粉々にする力をもっているとは、想像すらできなかった。 

ランチ時には止んでいた風が再び吹きはじめた。パドルをしながらテントの張れる場所を探したが、険しい地形のために適当な場所を見つけることができなかった。そうこうしていると、傾斜の急な階段をともなう弁天岩が現れた。渡辺さんは体力の限界にきていたし、田中さんも容赦ない風のなかパドルを続けていたため休憩を要していた。ボートを海岸に引き上げ階段をのぼると小さなレストランがあった。多くのダイバーが席についている店内に入ると、「あなたたちはボートを漕いでいたの? たいへんだったでしょう、こんなに風が強いんだから!」と、エプロンをつけた年配のおばさんが話しかけてきた。 

  
プラスチックの看板に、手書きで弁天食堂と書かれたレストランは僕らのオアシスとなった。最初の質問は「食事はできますか?」だったが、気づけば一晩泊めてもらうという話にまで発展していた。すぐに親しくなったオーナーは、注文した食事以外にも食事を出してくれ、「今晩は泊まったほうがいいですよ。海岸には蛇がいるから」と教えてくれた。しかしギアを長い階段を上って運ぶより、蛇のリスクのほうが選択した僕らは丁寧に断った。ただ、弁天食堂のアウトドア・ダイニングエリアでおこなわれたディナー・パーティーはしっかりと満喫させてもらった。 
  
  
6日目 
  

目的地へはまだ相当な距離が残っていた。唯一とも思える問題は時間となった。旅を一週間で終えるには真野湾よりもっと規模が大きく、新潟からやってくるフェリーやジェットフォイルという定期便が出入りする両津湾を横断しなければならないのだ。 

親切な弁天食堂のオーナーに別れを告げ、どれだけ進めるか試そうと僕たちはパドルしはじめた。風が強くなると同時に渡辺さんが遅れ出したので、弾崎という町で休息をとった。そしてまた両津小川を目指すつもりだったが、ここから僕たちは3人でパドルすることになった。 

「俺、両津へ行くわ」と渡辺さんが言った。もともと彼は新潟に帰る予定で、両津は新潟に一番近い港なので理解できるが、彼は釣りが一番上手だったし、もう一緒に芋焼酎も飲めないと思うと、嫌でも寂しさがつのった。 

フェリーの運航スケジュールを知っていた中野さんが出発を促した。船の来ない時間なので、今のうちに横断しようと提案したのだ。彼の意見に同意した僕らは進行方向を確かめつつ、フェリーとぶつからないよう長い横断をはじめた。湾の向こう側は安全に見えた。しかし、突然ジェットフォイルが姫崎あたりから入ってきた。時刻表には載っていない、不定期便が僕たちの方へ猛スピードで近づいてきたのだ。ひかれちゃヤバイと、僕らはパドルを必死に振って存在をアピール。ラッキーにもボートは港へと方向を変えていってくれた。こうして長い横断を無事に終え、歴史的で芸術的な両津小川で休息をとった。 

  
その後も、海岸線の丘に木々がたちならぶ、小さな町の側をひたすらパドルした。灯台の近くに芝生のキャンプグラウンドがある松ヶ崎まで、移動距離はトータル46キロにも及んだ。ようやくこの日のキャンプ場所に腰をすえると、最終日の予定に思いをめぐらせた。キャンプ翌日の昼に出航するフェリーに乗船するには、4時に起きなければならない。そう思いつつ、夕食と翌日の朝食の支度をした。 
  
  
7日目 
  
眠い目をこすりながらの朝食後、簡単に荷造をすませて出発の準備を終えた。しかしほかのクルーは 
みんなゆったりと時間を過ごしていた。ミネソタにいた時には、よく夜間のカヌーを楽しんでいた僕は「いこうよ!」と急がせようと声をかけた。カヤック・マラソン優勝パドラーの中野さんでさえ、真夜中にカヤックを出すのは乗り気じゃなさそうだった。そんなゆるんだムードのなか、ようやく出発時間がやって来た。次の目的地だと信じていたライトの光を目指し、静かにボートを海へと浮かべた。夜が明けていくにつれ、ライトは錨をあげた船のものだと分かった。 
  
時間と共に風が吹きはじめ、波も高くなってきた。最終日、目的地へ着くまで強風が吹き続け、行く手を阻もうとしているのではないかと思わせる荒れようを見せた。最終地点に差し掛かった時、僕らは南西の風をまともに受け、波も大きなままだった。右手には鋭い絶壁が広がり、岸が近づいてきたためか、波はブレイクをみせる。突然にして白い煙突と、小木の町が視界に入ってきた。もう、あと少しで到着だ。 
  
 一時間後、僕らはスタート時と同様、たくさんのたらい舟に囲まれていた。ボートをたたんでフェリー乗り場へ急ぐ。時間に余裕はなかったが、言い表せない達成感から気分は高揚していた。僕らは丘からでは決して味わえない、この島の美しさと歴史を経験する貴重な一週間を過ごすことができたのだ。古代から流刑の地とされているこの島に、僕らがこんなに安らぎを感じるのは、まったくのアイロニーではないだろうか。