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特徴

2010
33 号
Impossible is Nothing
By Michael Tan

妻のミキと竹馬で日本縦断3,000キロを走破することを目指し、初めて20キロの荷物を背負って竹馬に乗ったのは、日本最北端の地である宗谷岬だった。自宅近くの千葉の公園とは違い、オホーツク海から吹き付ける風は経験したことのない強さだ。そして、こんな風が吹くコンディションで竹馬に乗ることも初めてだった。大理石の記念碑の前でストレッチをしながら、ここからは「初めて」の経験の連続になるのだと気がついた。だれもこんなクレイジーなことはしない。スタートするとすぐに横殴りの雨が降り始めた、そして僕たちはどうして一歩ずつ進むべきなのかを理解した。

2009年の6月、アウトドアジャパンの人たちと初めて会った時は、居心地のいい環境で考えたこともあり、現実離れをした無鉄砲な計画をたててしまった。きっかけは、不可能なことはないということを信じない生徒に、それを証明しようと思ったことから始まった。ボルネオとスマトラのオランウータン問題についての授業をした際、子供たちは「解決はできない」問題だと答えた。森林破壊の問題は、世界でさえ解決することができないので、彼らにとっては問題が大きすぎ、自分たちには何もできないというのだ。

「不可能なことはない」、それはスローガンとしてはいい、でも自分も確信していないのに、生徒にそう思わせることは難しい。僕らの計画はいたってシンプルだ。皆ができないだろう思っていることをやりのけて、「ね、不可能なことはないでしょ」と言うだけである。そんな時、ミキが竹馬で日本を縦断するというアイディアを出した。悪くない。そしてポンゴ・ホゴ・チャレンジが生まれたのだ。

僕たちはまっさらの竹馬で宗谷岬から旅をスターとさせるため、北海道までの片道切符を2枚買った。ここを起点に、僕らは九州の佐多岬までを歩いていく。

最初の一ヶ月が終わる頃、ようやく竹馬で旅をすることがどういうことかわかった。一日が長く感じ、手、足は痛いし、15〜20キロを歩くと背中の荷物がいっそう重みを増してくる。反面、周りの景色に目をやると、その美しさに目を奪われ癒されていくのである。

北海道のサロベツ原野では、ゆっくり歩くそばで渡り鳥がたわむれ、鹿が鳴き声をあげて挨拶していった。野草が道に咲きほこり、利尻島を西側に眺め、ここまで来た頃には痛みにもだいぶ慣れてきて長い距離を歩くことも苦にならなくなってきた。幅が広く、交通量の少ない道を歩いていると往々にして地元の人が親切に声をかけてくれる。

8月1日は本州に到着した日であり、夏の始まりでもあった。例年になく涼しく雨が多かった北海道の7月と違い、青森、秋田、山形は青空の下、うだるような暑さとなり、また夏休みで海水浴に向かう車が歩く僕らのそばで排気ガスをはいていた。

僕らは機会があるごとに、日本海の海で泳いで暑さを癒した。そのたびに岩が多い海岸の岩場で遊んだりせず、ただバーベキューの回りにたむろする人を見つけた。2人とも東北に行ったことはなかったが、いくつも並ぶイカの姿干しや海を見下ろす棚田を通り過ぎ、一番好きな場所となった。

素晴らしい景色は距離を忘れさせてくれた。しかし身体の方は、一日が終わると出発した北海道の頃と同じ疲労があった。つま先の爪は黒ずんで、靴擦れのうえにまた靴擦れができ、筋肉がほぐれずバンバンだった。これはきっと試練であり、旅の終わりの鹿児島に着くまで続くことだろう。だけど本当に大変だったのは、全行程を竹馬で歩くということだった。

南へ行くほど町は大きくなる。都市では通りすがりの車の人に驚きの顔をしてジロジロと見られるなど、僕らは大きく注目を浴びた。

「すごい」「えー、見て見て」から「馬鹿だね」、または「見ろ、気違いじゃない!」といった人々のコメントを、唇の動きを見るだけで理解するのがうまくなってきた。なかには事故にあいそうになるほど、我を忘れて僕らに見入る人たちもいた。

ほとんどの人は「竹馬」という言葉を、懐かしむようにつぶやいていた。実のところ、日本を縦断するには、なにかこの国の伝統的なものでなければいけないと思っていた。だから会う人会う人が懐かしむようなニュアンスで言葉を発してくれたので、僕らはともに「竹馬を選んでよかったね」と喜んだ。

竹馬は思ったよりも丈夫だった。新潟を越え、金の稲穂の富山、そして古都金沢の中間地で日本海に別れを告げ、大都会がある太平洋側へと進んだ。

この都市部へ舞い戻ることが、意外にも僕らのペースを崩した。京都、大阪、神戸の周辺のコンクリートジャングルでは、僕らの日課である料理とキャンプをすることがとても困難だった。日本海の人々は暖かい声をかけてくれたが、都会の人たちは自分の生活に追われているようで、僕らになんの反応も見せなかった。

こんな状況は予期していなかったので、やる気も出ず、煙たなびる工業地帯を歩く日々は終わりがないような気がした。ゴールはまだまだ先で、しかし不機嫌になり、2人ともよく喧嘩をするようになった。

些細なアクシデントでも起こっていれば、旅をここでやめていたと思ったほどだ。そして実際には何事もなく、神戸をようやく出て、色あでやかな姫路城のある姫路へと入った。

季節はすっかり秋。朝日や午後の日差しに映える、見事な紅葉のおかげで僕らのやる気と、足にパワーがみなぎった。

毎日歩く道路は渋滞していたけど、僕らは岡山の後楽園、広島にある寺の町の尾道、四国のフレンドリーなしまなみ街道など進んでいった。

愛媛では道の脇に、クリスマスツリーのデコレーションを思わせる形でみかんがなっている木を見つけた。そして北海道を出てから初めて他の旅人と出会うことになった。四国巡礼88箇所めぐりをしているお遍路さんだ。

12月になると、僕らはフェリーで九州に渡り、ついにゴールのある鹿児島にはいった。高い山が僕らの前に立ちはだかっていた。海岸線の道路を選ぶことでどうにか登り道を避けてきたけれど、とうとう他に選択がないところまできてしまった。

九州も冬を向かえ、気温が僕らの新しい試練となった。朝は凍てつくような寒さで、竹馬を握る手に感覚はなくなった。一歩一歩フットレストを探すのが困難なほどで、歩くことに集中できるかどうかが勝負となった。そして、歩くことに集中していたら、いつの間にか山の心配を忘れていた。

短いクリスマス休暇を取った後は、九州の人々の暖かい応援で日がどんどんと早く過ぎていった。新年には初めて鹿児島湾と日本最南端の場所を目にした。くすぶっている桜島を右手に、開門岳が佐多岬を守るようにたっている。6ヶ月前までは予想もしなかったが、旅の終わりが近づいているのである。僕らは悲しい気持ちに包まれた。

189日目、旅の最後、そして佐多岬を目指す日、北海道を出発の時と同じような強い風が私たちのゴールを見守るかのように舞い戻ってきた。今まで体験したどの台風より強く、一歩ごとに風が吹きつけた。しかし僕らに迷いなどなかった。確実に一歩一歩立ち向かっていけば、何事も可能なのだと僕らはわかっていた。

オランウータンの森再生プロジェクトのサポート

この旅で僕らは約11,000ドルの募金を、オランウータンと彼らの住む森のために集めることができた。そのほとんどは、旅の途上で出会った人たちの善意で集まったものだ。すべての寄付金はボルネオ・オランウータン・サバイバル・ファウンデーションによる、オランウータンを森に返すためボルネオに土地を買う「オランウータンの森保護再生プロジェクト」に寄付される。今もBOSのサイトから寄付することができる。そして、それがどんな金額でも助けになる。

BOS Japan: www.bos-japan.jp