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特徴

2016
Issue 60 (Summer 2016)
バリで未 来を形 作る
By 三好利恵

バリの有名なレギャンビーチの夜明けのことだ。早朝の浜辺で美しいビーチを歩く人はまばらで、サーファーは私だけという幸運に恵まれた。

ヤシの木々や大通りの近くでは、世界中から来る観光客をもてなすためにローカルたちが屋台を準備中だった。ビーチパラソルが設置され、サーフボードやスタンダップパドルボードがきちんと一列に並べられ、ビーチマットやサロンが広げられている。ホットコーヒーやインドネシアの朝食の香りがあたりに満ち、「サーフィンのレッスンはいかがですか!」という売り込みの声も聞こえてくる。

サーフィンの業者は、人気のビーチであれば世界中で見られる光景だ。このどこにでもあるビーチでの娯楽を提供する者たちは、無視されたり拒否されたりしないかぎり、日焼けした観光客に熱心に売り込みつづける。彼らの朝の業務を見ながら、語られたことのない彼らの生活について聞けないものかと私は考えた。

ボードにワックスを塗っていたある土曜日の朝、モハマット・アーンに出会ったときにそれは意外と早く実現した。アーンの一日は夜明け前、おもに初心者用のフォームボードやファンボードを6、7枚車でクタへ運ぶことからはじまる。午前6時から午後6時までは、レンタルボードの小屋にいたり、客にサーフィンを教えたりして過ごす。アーンがほかの業者と違うのは、彼が自分の会社サンライズ・サーフボードのボードのみを使用していることだ。私が興味を抱いていることに気づいたアーンは12時間の勤務後にサーフボードの工場を見学しないかと誘ってくれた。

午後10時過ぎ、レギャンの有名な道や夜の賑わいを抜けて、空港のある南へと疲れた身体で車を走らせた。工場は観光地であるクタの影に隠れた人口の多いジャラン・ケディリの中心にあり、特別にビーチに近いわけではない。多くの観光客が目にするバリとは違う。

サンライズに足を踏み入れると、自分の家のような心地良さを感じた。建物の簡素な外観やコンクリートの壁の向こう側では、20代前半から半ばの4人のインドネシア人の青年が、リラックスした楽しい雰囲気のなかで、深夜までサーフボードをつくっていた。「ガン」スプレー塗装を見るさいは顔用マスクを手渡される。2人の青年がフォームボードの出荷の準備をしながら、箱に入ったドーナツを食べていた。隣の部屋ではアーンがショートボードの表面の最終仕上げに目を通していて、丸一日ビーチで過ごした後にこの作業をおこなうスタミナをどうして得られるのか不思議に思った。

彼の真っ黒に日焼けした顔と髪を見れば、生まれてからずっとバリでサーフィンをしていると思うかもしれないが、彼にはひどいジャワ語訛りがあった。

「ぼく海の近くで育ったけど、サーフィンはしていなかった」と話す。

彼は東ジャワ州の州都スラバヤで生まれ育った。スラバヤは近代的な工業都市だが、驚くほど貧富の差がある。月収は1万円から25万円、都市の拡大にともなって都市の貧困層は生活費の高騰や雇用率の悪化に苦しんでいる。

29歳のアーンは若い頃は大抵の時間を漁師として過ごしたが、開発が進んで貧困が彼を襲うことになる。 「タバコを買うお金さえなかった」と言って彼は笑ったが、その顔はすぐに暗くなった。「食べるものを買うお金もなかったんだ」

それでもバリには金があった。南国のパラダイスには年間4百万の観光客が訪れている。アーンは荷物をまとめて、観光ビジネスで働き口が見つかることを祈って友人数名とバリへと向かった。

どこへ向かえばいいのかもわからなかった彼は、友人とサーフィンをしに行き、たった3日で波乗りを学んだ。彼はクタビーチで毎日ひとり練習した。彼には懐かしい話なのだろうが、彼はどれほど混雑していようとも、クタはいまでも彼のお気に入りのサーフスポットのひとつだと言った。

その頃、おなじくスラバヤ出身の彼のいとこがサーフボードの工場を立ち上げたいと考えていた。研究や試行錯誤を重ね、ふたりは最初のボードを一ヶ月で完成させた。これがサンライズ・サーフボードのはじまりである。

遠く離れた韓国から注文が来るようになるのに長くはかからなかった。アーンはすぐに次のプロジェクトのための資金を貯めることに成功する。それは大阪の日本語学校に入学することだった。ほかの多くのスラバヤ人のように、アーンは当時インドネシア語とジャワ語しか話すことができず、英語もほとんど話せなかったが、彼はほかの業者との差別化を望んでいた。

「バリを訪れる日本人観光客の数は増えていて、多くの サーフィンインストラクターは英語を話していたから、自分は日本語を学ぼうと思ったんだ」

2011年、彼は大阪で3年半のコースに申し込み、ダクトテープの工場で働いた。日本で過ごした時間は特別なものだった。休日には京都や千葉に行って波乗りを楽しんだ。

アーンは現在も、いとことサンライズボードの生産をつづけていて、彼のようにより豊かな生活を求めてバリへやってきたジャカルタやスラバヤ出身のスタッフの管理をおこなっている。また、彼は年に1度、貯めたお金で実家へ帰り家族に会う。この生活をずっとつづけたいかと訊いたら、確信は持っていないようで、成り行きにまかせるという感じだった。

「今は独身だけど、もし結婚してスラバヤで家族ができたら、戻るかもしれません。だれにもわからないけど、でも今のところは、私の生活はバリにあるんだ」✤