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特徴

2015
Issue 54 (Winter 2015)
山で犯した小さな失敗
By マイケル・ブロゲット

文:マイケル・ブロゲット

訳:李リョウ 

 つま先から頭の先まで完全にずぶ濡れの状態で、私は雪に覆われた山間(やまあい)の沢を下った。「このまま下っていけば、暗くなるまでには抜けだせるだろう」と私はわずかばかりの楽観的な気持ちを胸に秘めていた。ところが、その先でとつぜん私は滝に出くわし、およそ20m下の滝壺(たきつぼ)にあわやのところで転落しそうになってしまった。「どうしてこんなことになってしまったんだ?」と、私はそれまで耐えていた心の混乱を堪(こら)えきれず大声で叫んでしまった。

 数年前のこと、大阪の高校で英語の講師をしていた私は、休日を利用して仕事の疲れを癒(いや)す場所を捜していた。読書をしてリラックスしたり、冬山を登ったりできるところだ。インターネットでそんな場所を検索していると、奈良の南部にある洞川温泉(どろがわおんせん)という古風な村を発見した。そこは公共の交通機関を利用して数時間ほどのところで、しかも日常の生活から離れられる気分になれる。

 凍りつくような冬の午後、私はその村を訪れた。太陽はすでに暮れようとしていた。村は雪で覆われ人の気配は感じられなかったが、それでも興味をそそるものはいくつか見受けられた。大通りは宿屋や漢方を売る店が並んでいた。そのほとんどの店は閉まっているか、開店していても閑散としていた。私は予約していた宿までとぼとぼと歩き、チェックインした。

 次の日の早朝、私は修験道の寺に赴(おもむ)き、日課のようにおこなわれている儀式に参加した。修験道は仏教と神道が混在した神秘的な宗教である。彼らは山の中で自然を崇拝し、厳格な修行をおこなっている。総本山である大峯山寺(おおみねさんじ)は洞川温泉の山上ヶ岳(さんじょうがたけ)にある。そこはユネスコの世界遺産に登録され、千年以上の歴史がある熊野古道の一部でもある。時間ほど座を組みながら経を唱える修験者(しゅげんしゃ)と、独特な太鼓や法螺貝(ほらがい)の音色を聴いているうちに私はトランス状態のような気分に陥(おちい)ってしまった。

 その場所で私は修験者のリーダーである神直(しんちょく)先生を紹介された。彼は修行の驚くべき話をしてくれた。

 先生がまだ20歳だったころ、彼は山に籠(こも)って神と直接対話をしようと試みたことがあったという。彼がその願いを達成するのに3年がかかった。その間、彼はなにも食べず飲まず眠らないという修行をおこない、死ぬ寸前まで自分自身を追い込んだ。にわかには信じられない話ではあり、私は疑ったが、彼のその話す態度は真剣であった。いままで経験してきたことのない霊的なものに私は触れたような気がした。その後、私たちは修験者たちと朝食を食べて別れた。また機会を見て訪れたいと伝えた。

 翌年、私は妻とともにこれから生まれる子供に期待を寄せていた。子供が誕生するまえに私は大峯山寺にお参りをして神直先生からご利益をいただこうと思った。その前年に洞川温泉を訪れたときのように、私は寺を参拝して、健康な女の子の誕生を願うつもりだったのだ。だがこのときは、修験道の開祖である役行者(えんのぎょうじゃ)を祝う祭りと偶然にも重なってしまった。そのため神直先生は大変忙しかったが、それでもスケジュールを調整して先生は、私が山に登るまえに時間をつくってくれていた。彼は私の報告にたいそうお喜びになり、子供の顔を見る日を楽しみにしていると、祝儀袋を差しだされた。私が丁重にお断りしても譲らなかった。その後、上の寺に参拝した私は、そこで小さな出産祈願のお守りを購入した。そして寺を出て山頂の景色を愛でた。山々の峰々や樹海、私はこれから起きる期待に心を震わせた。

 2014年の3月、妻が2人目の子供を妊娠したとき、ふたたび私は乗客のいないバスに揺られて洞川温泉をめざした。私は2日間滞在し、そのあいだに山をめざして5月に生まれる子供の安産祈願をするつもりだった。

 村に到着したのが午後7時、村はすでに静まり寒かった。宿の予約はなく、私はキャンプ場にむかった。私が歩いていると車がゆっくりと接近してきた。「何をしているのですか?」とすこし大きな声が聞こえた。「今夜キャンプできるところを捜しているんですが、キャンプ場は開いていますか?」。その声の女性は私がむかっているキャンプ場のオーナーだった。「もちろん大丈夫よ」

 

 この辺りは2日間の大雪が降り、村は白い毛布が覆っているようであった。テントで眠るよりはと、彼女はキャンプ場にある小屋を提供してくれるという。私はその申し出をありがたく受けた。

 次の日、私は早朝に起床して、登山の準備をはじめた。キャンプ場のオーナーは、山はここよりもさらに2m以上は雪が深いだろうと注意する。私はテントとシュラフをバックパックに詰め込んでいたが、それならば軽装で頂上をめざし、午後には下山して温泉に浸かれるようにしようと決断し、重い荷物を置いて出発した。

 登山は難しくなかった。雪はうつくしく障害というよりはすばらしい景色に感じられた。山道に人影はなく、3時間半ほどで頂上に着く。だが雪の積もった寺の山門は閉じられており、私は呆然(ぼうぜん)とそれを見つめた。

 「お守りを手に入れるチャンスがなくなってしまった」。私は500円玉を雪が覆った賽銭箱(さいせんばこ)に投げ入れると、静かに祈りを込めて頭を下げた。その日はすばらしい快晴で、私の心は2ヶ月後に生まれる4人目の新しい家族のことで一杯だった。足取りは軽く、まるでスキップでもするように私は山を下りながら麓(ふもと)の温泉を思った。

 やがて階段が壊れ通行止めになっているところに出た。しかたがなく数m先の平行した山道へ迂回(うかい)しようとしたが、そのとき私は滑落してしまった。まるで人間ソリのように私は滑落していった。雪のおかげで止まることができたときには山道からすでに70mも下にいた。私はその山道を見上げ、わずかな希望と苦痛で心が入り乱れた。私は深呼吸をして気持ちを整え、斜面を這(は)いあがろうとしたが、さらに滑落してしまった。私は危うい状態で山の斜面にぶつかりながらさらに滑り、200m下の極寒の川に落ちた。そして、その2時間後に私は滝に出くわしたのだった。私は滝から後ずさりし、重い足取りで近くの尾根にむかった。心臓は高鳴り、ずぶ濡れの衣服からは水が滴り落ちた。太陽のシルエットは峰の向こう側に消え、無情にも夕暮れの空が迫っていた。

 私は平常心を保つように心がけ、状況を分析した。私はずぶ濡れだった。夜になればすぐに気温は氷点下におちるだろう。所持しているものはジップロックに入ったナッツと乾燥ナツメ椰子、そして空っぽの水筒。私は恐ろしさで首を絞められたような気分になった。私は辺りの様子を注意深くうかがった。しばらくは木々と雪のほかにはなにも見つけられなかったが、やがて杉の森の向こうになにかがあることに気がついた。家のようなものだろうかと、私は希望を抱いた。だれかいるかもしれない、いなくてもそこで一夜を過ごせるかもしれないと私は思った。

 暗闇のなか、雪のスロープをもがきながら下り、その小屋にたどり着いた。そこはすでに潰れかけた小屋だった。私は壊れた窓から中へ入り、ぼろぼろの畳に座って翌朝まで眠らないように務めた。けっきょく、私はこの潰れかけた小屋で6日間滞在することになった。人と犬とヘリによる捜査隊が組織され、一度はヘリが頭上を通過し、私は声を限りに「助けて」と叫んだが、虚(むな)しく通り過ぎてしまった。

 6日目の夜、私は古い五右衛門(ごえもん)風呂に座ったまま、もう二度と妻や子供、そして新しく生まれる子を見ることはできないだろうと考えた。いままでこの小屋にいたので命をしのぐことはできたが、もうこれ以上体力はもたない。山から自力で脱出しないかぎり助かる道はないだろうと悟ったのだ。私は小さな娘が「パパ、負けないで!自分で山から脱出するのよ」と叫ぶ情景を思い描いたが、すぐに絶望的な気持ちに襲われた。しかし奇妙だが、やがて静かな精神状態が私の心の雑念を洗い流していった。私は全力で崖を登り、山を脱出する手がかりをつかむしかなかった。もしくはその過程で凍りついて死ぬかだろう。暗闇と容赦のない寒さのなかに座りながら、夜明けを見ることはないかもしれないと思った。翌朝、土砂降りの雨がバケツのなかに溜まった。私は小屋に最後の別れを告げ、力の限り山を登ることを心に誓った。私はゆっくりと濡れた雪のなかを這うように進んだ。

 たぶん午後になっていたと思う。私は木造の建物が崖の上に立っているのを見つけた。私はそこに接近し助かるための手がかりがないか捜した。そのとき、木製のプラットフォームのレールにつまずいてしまった。私は凍りついたようにしばらくそこに座りつづけた。そしてよく見ると、そこに雪に覆われた山道を発見したのだった。それは、ほぼ一週間におよぶ絶望のなかで、初めて希望を見いだした瞬間でもあった。

 数時間後、私はやっとの思いで村に到着し、最初に見つけた家のインターフォンを鳴らした。「マイケルといいます。助けてください。助けてください、助けてください」。ドアが開き、私は中に入ると同時にふらふらと跪(ひざまず)いた。思わず涙が込みあげてきた。私は生還し、神直先生の家にたどり着くことができたのだ。一時間後、私は家族と再会することができ、そのときの喜びは人生で最高のものであった。

 病院で検査の後に家に戻り、体力と精神の回復を待った。一ヶ月後、私は洞川温泉に戻り、捜索にかかわった人々に感謝の気持ちを伝えた。

 この遭難でうけた心の傷はしだいに癒(い)えていったが、私はあの小屋のことを考えつづけていた。だれがあそこになにの目的で建てたのだろうかと。その答えを知りたいと思ったが、だれにも答えられないのだろうとも考えていた。しばらくして、だれかが、その小屋は材木会社が建てたのかもしれないと教えてくれた。そんなときに、桝谷紀恵(ますたによしえ)さんというすばらしい女性と私は出会うことができた。彼女は洞川温泉から近くの奈良吉野にある材木会社に勤めていた。今回の事故を知ってから、なにかできることがあればお手伝いがしたいと彼女は考えていたようだ。彼女には川上村に住む老齢の木こりの友人がいて、彼なら山のことならなんでも知っているだろうといった。

 私は小屋の写真とその地図を彼女に送った。彼女はそれをその老人に見せたという。彼の名前は辻谷達雄(つじたにたつお)といい、81歳であった。数日後、私は驚きの便りを得た。彼女によると、その小屋を建てたのは辻谷氏本人だという。11月に、私はその辻谷氏に会いにいき、彼の木こりとしての人生や、その小屋の話を聞くことができた。私たちはすぐに意気投合した。まるで神直先生と出会ったときとおなじようであった。洞川温泉に戻るたびに、地元の人々は私を見て口々に「体力があったから」と言う。でも私にとっては、「運命」という言葉のほうがもっとしっくり感じるようになっていた。

 

 

遭難したときのサバイバルのヒント

 事故をふりかえると、ほかにも助かるための選択肢があったと思う。でも、もし冬山で遭難したとき、私が経験から学んだ5つのことを思いだしていただければ、おなじような状況で役に立つかもしれない。

 

1 パニックにならない。

 慎重な決断があなたの命を救う。まずは時間をかけて落ちつき、行動について論理的に考えよう。

 

2 可能な限りドライを保つ。

 あたりまえのように聞こえるが、でもじっさいに冬山にいるとこれが容易なことではないのがわかる。急激な活動からの発汗だけでなく、雪や水によって衣類が濡れてしまうことがある。全力でドライを保たなければならない。夜になると気温は急激に落ちあなたの身体を凍りつかせる。

 

3 水分補給

 遭難によるストレスの状態で脱水症状を引き起こすのは珍しくない。身体はつねに水分を体外に放出している。雪を食べて水分を補給することは重要だ。水筒などがあればそこに雪を詰め、体温で暖めると溶かすことができる。それを何度もくり返す。

 

4 過去の知識や経験を生かす。

 事故のまえに私はある本を読んでいた。それは水なしで3日間、食料なしで3週間を生き延びるという内容だった。この本による知識のおかげで、一袋のナッツと乾燥ナツメ椰子を持っていた私はすぐにそれを配給制とした。さらに餓死にいたるまでは時間がかかるということもわかっていた。そのおかげで、私は気持ちを落ちつかせることができ、直近の問題であった避難所を捜すことと保温の解決に集中することができた。

 

5 一定の場所に留まることは正しい。だがもし移動しなければならないとした場合は、上をめざし下ってはならない。


 これは常識的には考えにくいかもしれないが理由がふたつある。ひとつ目は下をめざすと地形が拡大してさらに迷ってしまう可能性が高くなる。ふたつ目は空からの捜査と救出の場合、捜索者にとっても遭難エリアを限定し、発見しやすい。さらにロープで遭難者を吊りあげるのも容易になる。

 

マイケル・ブロケットは大阪にある私立高校の英語講師。週末は家族とともに日本のアウトドアを楽しんでいる。彼は今回の事故を基に本を執筆中。希望としては2015年中に出版したいと思っている。

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