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特徴

2012
Issue 45 (Autumn 2012)
楽しさに焦点を当てたK2スキーの50年
By ビル・ロス

 ブランドによっては、その製品以上にパワフルなものもある。製品の優位性は当然だが、その製品のブランドやロゴが創りだす感性。それが使う人、それを使いたいと思う人たちの原動力ともなると、その会社は代表的な企業になる。

 よい製品を作ったとしても、かならず成功するとは限らない。もちろん助けにはなるが、製品のイメージをあげたり、新しい文化を作り上げることも重要な要素だろう。ずいぶん前になるが、ジョブズとウォズニアックという2人のスティーブが、カリフォルニアのガレージでコンピュータを作った。今日、アップル社は世界最大の会社となったが、それは、マックの熱狂的なファンに支えられていることが大きな要因となっている。

 ワシントン州シアトル近郊のある島で、動物用ケージの製造を一時休業し、ファイバーグラススキーの製造という新しい試みに取り組もうとしたビル・カーシュナーという男がいた。それから50年、K2は世界最大のスキーメーカーのひとつであり(たぶん最大だが、大手会社の多くが国際ホールディングカンパニーの一部となっている昨今では、断言しにくい)、そのアイデンティティは非常に明確で、おそらくもっとも妥当といえよう。

 

 K2のサクセスストーリーを語るにあたって、楽しさというコンセプトを抜きには考えられない。世界一の名前を製品につけるのはもちろん魅力的であり、またK2はつねにトップスキー選手を抱えてきた。しかし、当初から販売促進は 楽しさ がコンセプトとなった。広告やポスター、カタログ、トップスキーヤーがカメラを持って米国内のリゾート地を巡るプロモーションツアーまで、どれも風変わりで面白かった。たとえるならば、雪上での放浪カクテルパーティとでもいうのだろうか(K2はよく、世界初のウエットTコンテストを開催したといわれているが、これが名誉か不道徳かは見解が分かれる)。

 1980年代、スキーヤーは、滑走面が限られたスキー場から雪深い斜面やその先の山に目を向けるようになった。スキーヤーの意識に重要な変革が起きたことは、グレッグ・スタンプによる1989年の映画『Blizzard of Aahhs』にみごとに結集されている。この映画に出てくるおもなスキーヤーの3人がK2を使用していることはまったく驚くことではないし、それぞれが、その後20年間、スキー界では知らない人がいないほど有名になった。

 K2という名前は、ビルとドンというカーシュナー兄弟に由来するが、K2という山とのつながりは偶然ではない。ドンは、おもに今も生産をつづけるカーシュナー・インダストリーズを担当している。

 ピュージェット・サウンドのバション島にある同社は、犬のケージ(どうやらよく売れているらしい)やプラスチック製ガイ骨など、ファイバーグラス製品を生産している。

 しかし、ビルはスキーヤーであり、エンジニアで、何においても工作することが好きだった。高品質の犬のケージを製造ことにはさほど興味をそそられておらず、1960年代初めに、家族で太平洋岸北西部にスキー旅行に行ったことから、父の新しいファイバーグラスのスキーを試すことが楽しかった。

 

 当時、米国でもっとも売れていたスキーは、ヘッド・スキー社のメタルスキーだった。メタルスキーは長くて、重く堅かった。ビル・カーシュナーのスキーは、軽量で反応がよかったが、当初、家族が試したプロトタイプでは板が剥がることがよくあった。

 「父はスキーを作り、僕らはクリスタル・マウンテンに行ってテストするんだ」と、後に息子のブルースが書いている。「ときどき1度しか滑ってないのに、上部が剥がれたこともあった。たいていそうなるんだ。接合に使っていた接着剤がもたず、剥がれてしまい、父は、山から帰ってからデザインに手を加える。そしてまた山に行き、それをテストして、そのたびに父が作った板でスキーを続けていた。楽しかったよ」。

 ついにスキーは壊れることがなくなった。彼が最終的に考えだした製法は、ウッドコアをファイバーグラスで包み込んで焼くことだった。これは、今日、3軸テクノロジーとして知られているもので、ウッドコアでファイバーグラスを編み込むものだ。軽量で反応がよく、当時人気があったメタルスキーとはまったく異なる製品となった。

 このスキーはまたたく間に人気が出た。ビル・カーシュナーはシアトルのスキーディストリビューターと契約し、K2ブランドのスキーの販売をスタートさせた。1964年に250台を製造し、翌1965年には1,600台を製造した。1967年には明らかに成功の兆しが見えたため、K2スキー会社は企業として正式に設立された。

 ファイバーグラスのスキーは将来性が有望視され、ハワード・ヘッドがメタルスキーからファイバーグラスへと生産を移行させるべく、同社を買収しようとしていたという噂がある(もの静かなビル・カーシュナーは、ヘッドが買収を諦めるまで彼のオファーを軽く受け流したとも言われている)。

 

 この頃、このK2スキーに2人の人物が関わることになる。そのうちの1人は、1967年に初めてK2の提供を受けたスキーレーサーのマリリン・コクランだ。「すごく気に入ったの」と彼女は話す。1969年、ワールドカップでK2を履いてレースに出場した。大回転では優勝こそ逃したが、彼女は、アメリカ人として初めてワールドカップのタイトルを獲ることとなり、アメリカ製のスキーで栄冠を勝ちえた初めての選手となった。

 もう一人はテリー・ヘックラー。シアトルを本拠地とするヘックラー・アソシエイツというマーケティング会社のオーナーだ。ほとんどのスキーに関する歴史は、おもにK2の有名なスキーヤー・ラインアップに関心を示していたが、同社の成功にはヘックラーの貢献がかなり寄与している。彼は、製品のデザインを統一した。彼が提案した「赤・白・青」の配色は何十年もブランドを特徴づけており、彼が改良したロゴデザインは今日まで使われている。

 彼は、奇想天外なアイデアをカタチにできるセンスの持ち主だった。アンクルサムを描き、「K2が君らを求めている」と書いたポスター。スキー小屋に「K2を噛み砕け」とペイントしたプリント広告。1970年代には、卒業アルバムをテーマとし、たとえば整髪料でばっちり決めた髪型のサルバトーレが、チーズバーガーデラックス・スキーを抱えているなど、意識して不釣り合いなペアリングを起用した(そのコピーには、「サルは不思議なほど高速で安定しており、とても活動的な人物である」と書いてあった)。

 朽ち果てた田舎のK2ガソリンスタンドに、スキーの形をしたガソリンポンプ。地面から突き出ている巨大なスキーの先端を取り囲む猿たちのポスターは、あの映画『2001年宇宙の旅』を連想させる。製品との関連は必ずあるが、その表現はいつもユーモアとセンスにあふれていた。

 

 レーシングとのつながりでは、レーサーのスパイダー・サビッチをサポートし、その後、フィルとスティーブという双子のメーア兄弟などをサポートしており、1980年代まで続いた。しかし今日、同社はレーシング用スキーをまったく製造していない。1987年にスノーボードを加え、その分野で成功を収めている。

 1990年代には、スキーの大御所でありK2のマネージャーであるマイク・ハットラップが開発を担当した、テレマーク専用のスキーの製造を始めた。しかし、単にテレマークスキーを作ったのではない。細いスキーに壊れやすいレザーブーツという伝統をくつがえし、幅広くアグレッシブなスキーを作った。これは、注目されはじめていたプラスチックのブーツ、大胆なグラフィック、ピステ・スティンクスやピステ・オフなどの名前にぴったりのものであった。

 そのスキーに関係する顔ぶれも変化していった。スコット・シュミットやモヒカン刈りのグレン・プレイクなどの80年代や90年代のレジェンドスキーヤー、それにブラッド・ホームズ、ケント・クレイトラー、ショーン・ペティット、アンディ・マーレ、そして、とくにセス・モリソンやシェーン・マコンキーがいた。モリソンは、おそらくビッグマウンテン/フリースキーでは世界最高のスキーヤーであり、K2は彼のために力を注いでいた(1997年以来、彼にはシグネチャースキー・シリーズを提供し、Kファミリーカンパニー フルティルトにはモリソンブーツもある)。

 マコンキーは、スキーをすることから楽しさを引き出すというコンセプトを実践し、自分自身をいろいろな形で表現する才能があった。「シェーンの性格はK2ブランドのコンセプトそのものだった。楽しく、心を奪われるが、慎み深く、独創的で何をしでかすかわからない」と言うのは、K2のグローバルマーケティング部の副社長であるジェフ・マーチュラだ。彼は、徐々に幅が広くなってきたリバースキャンバー、つまり、普通とは逆の反りになったスキーの開発を、小さなスキーメーカーであるヴォラントと一緒にしてきた。彼は、アラスカで、ビッグマウンテンで、そしてスキーのバインディングに装着したウォータースキーで、リバースキャンバーを製品化してきた。

 彼は、残念ながら2009年、ベースジャンプの事故で死亡したが、自分が作り上げたポントゥーンが、その年、K2のラインアップに加わるのを見届けた。この極太で、ロッカーのついたスキー(トップもテールも上に反っている)は革命的だった。パウダーでのスキー、とくに日本のように雪がたくさん降る地域でのスキーがより楽しめるようになった。

 今日、事実、どのK2スキーにもロッカーがあり、ゲレンデ用スキーに比べてパウダースノーでより積極的に攻められる。しかし、どのモデルも端はある程度反り返っている。同社によると、これによりターンの開始が早くなり、湿った雪や深雪でのコントロールがしやすくなるということだ。もちろん、こうした機能は滑る楽しさをふくらませてくれる。

 ほかの地域でも、K2ブランドはスキー市場で躍進した。1972年、初めて500台が日本に輸出された。1980年代のスキーブームのさいには、日本は同社にとって非常に有望な市場となった。K2の完全な子会社であるK2ジャパンの代表取締役である田中秀明は、アメリカと同じコンセプトが日本でも成功の要因となったと話している。

 「K2という会社を表現するには楽しさという言葉以外にありません」と彼は言う。「若々しさ、斬新なグラフィックという、とてもアメリカ的な楽しさ。人々は、スキーに対してそういうイメージを持っているし、そういうところを好んできました」。彼は、若々しさは年齢とは関係ないと言う。登山家であり、エベレスト山を滑降した男、三浦雄一郎もK2ファミリーの一員であり、自分のシグネチャーモデルを持っている。今年、彼がスキーをする姿を見た私は、「79才でも確かにスキーで若さが保てる」と証言できる。

 K2ジャパンは、この4月に神楽スキー場で初めてのローカルキャンプK2を開催するなど、K2のコンセプトを具現化したイベントを開催している。50周年を記念して、昼の部は製品の試乗会やバーベキューパーティ、K2雪の彫刻、夜は、日本のトップスキーヤー、スキー記者とカメラマンのための、熱気にあふれた一大パーティがおこなわれた。

 今日、K2はライン、フォルクル、マジシャス・スキー、ライド・スノーボード、アトラス&タブス・スノーボードをはじめ、数多くのスポーツブランドを所有している。同様に、K2スポーツとして正式に知られている同社は、スポーツおよびアウトドア会社を専門としているホールディング会社、ジャーデン・コーポレーションが所有している。

  でもご心配なく。K2はおもに独立運営をしており、すでに1969年には、カーシュナー兄弟は、会社の発展に必要な資金を調達するために、外部の出資者を導入していた。K2傘下の会社はすべて同様に、独自の経営をする自由が与えられている。つまり、近い将来、 新しいK2スキーの革新的なファミリーの製品を売るために、新しいK2的な独創的なプロモーションが行われるだろうということだ。