>  屋外日本雑誌  >  Issue 40 (Summer 2011) : 7月/9月 2011  > 特徴 >  10 for 10: ロス・フィンドレイ

特徴

2011
Issue 40 (Summer 2011)
10 for 10: ロス・フィンドレイ
By Outdoor Japan

Celebrating 10 Years of Outdoor Japan
10 Years 10 People 10 Questions

ロス・フィンドレイ
国籍:オーストラリア人
職業/肩書き:ニセコ・アドベンチャー・センターのオーナー
現住所:日本/ニセコ
Web:www.nac-web.com

1.    日本へ最初に来たのはいつ? どうして日本へ?

 最初に日本へ来たのは、スキー・インストラクターの仕事をするためだったんだ。ちょうどその頃はオーストラリアの景気が最悪で、逆に日本はバブルの真っ最中だった。スポーツ専攻で大学を卒業したばかりなのに、オーストラリア国内ではそれに関連した仕事が全然見つからなくてね。だから日本へ行って何か日本的なことを身に付けられたら、その後に戻っても仕事を探しやすいだろうと考えたんだよ。

 日本での最初の仕事は、札幌のテイネ・ハイランドのスノードルフィン・スキースクールでの仕事で、当時そこのスクールのヘッドはあの有名なスキーヤー、三浦雄一郎氏だったんだ。だけど結局、僕にとって一番大切な日本らしさとなったのは、スーパー・スキーヤーでもある僕の素敵な奥さん、ヨウコの存在だった。といっても、もちろん彼女といることがオーストラリアでの仕事探しに直接結びつくわけじゃないから、ふたりで思いっきり楽しく充実した日本の日々を過ごすことにしたんだよ。

2.    ニセコに腰を落ち着けることになったきっかけは?
 
テイネで仕事している時に、インストラクター仲間に誘われて休みの日にニセコへ行ったんだ。その後も何度か彼らと行くうちに、ニセコでのスキーやあの雰囲気がものすごく気に入って、そのうちひとりでも出かけるようになったんだよね。で、結局テイネで2シーズンを過ごした後、ニセコへ移ろうと決心した(ニセコにはヨウコもいたから、正直それが大きな理由だったのかもしれないけど)。

3.    その頃のニセコはどんな感じだったの?

1990年頃のニセコは、まさにスキー・バブルの全盛期だったよ。とんでもないくらいに人が多くて、リフト1回に20分から30分待ちなんて当たり前だった。泊まる場所は、当時ヒラフにいくつもあったペンションのどこかというのが多かった。モーグル・スキーもすごく人気があって、日本の代表チームの選手でニセコをホームリゾートにする人も多かったよ。そして当時もニセコには大勢のローカル・スキーヤーのグループがいた。ニセコが持つあの特別な空気は、彼らがいるからだと思うんだ。あそこにはいつだってガンガンにスキーをし、思いっきりパーティーを楽しみ、キチンと仕事をする(といっても怠ける時は怠けながら)若い連中が大勢いたよ。

ニセコはいつも僕らにとってはとても心地いいライフスタイルを与えてくれる場所だったけど、1990年当時のニセコがとくに魅力的だったことのひとつは、あのどこまでも続くパウダースノー。そんなパウダーに踏み込んでくる一般のスキーヤーはほとんどいなくて、ローカルのグループだけが朝と午後、好きなだけ新雪のパウダースノーを楽しめたんだ。ほぼローカルだけが独占できる状態だったから、雪もどんどん深くなっていく。オーバーヘッドの雪の中でトラックを刻んだことも数えきれないほどあったよ。



4.    それからの20年でニセコはどんな風に変わった?

1990年代初めにはすごく賑わっていたニセコが、90年代半ばになると、多くの人たちが必死で生き残りを図ろうと苦心する場所へと変わっていった。日本のスキー・バブルが終わりを迎え、ペンションの多くは経営難に苦しむようになり、2000年に入った頃にはつぶれてしまったところもあった。だけど2001-2002年シーズンあたりから、今度は外国人スキーヤーが大挙して押し寄せてきた。これは日本のスキーリゾートが初めて経験するまったく予期せぬ新しい動きになったんだ。しかもこうした海外からのお客さんたちは、みんな1週間や2週間ほどの長期間滞在者だ。これもまた日本のペンションやホテルやリゾートにとっては、あまり経験したことのない出来事だった。

そしてコンドミニアム・タイプの滞在を好む彼らのために、ニセコはそれまでのペンションやホテルをベースにしたスキーリゾートから、コンドミニアムをメインにしたリゾートへと変貌を遂げることになった。ヒラフにも次々に飲食店や店ができていったよ。今ではニセコのリゾート・インフラは世界標準に近づきつつある。

5.    ニセコ・アドベンチャー・センターをスタートするきっかけは? 日本で自分の会社を始めようと思ったのはなぜ?

‘90年代の半ば、ニセコの景気はどん底だった。スキーの客足は遠のき、夏もたいした稼ぎは期待できない。だから思ったんだ。夏のアトラクションがないままでいたら、ニセコに来る人は本当にいなくなってしまうぞって。たまたまその数年前からカヤックをやっていたから、ラフティングの会社を作ったらどうだろうと考えた。当時、“ラフティング”という言葉を知っている日本人は少なくて、よく“リフティング”と間違えられたけどね(笑)。でも、川下りというエキサイティングな体験を誰にでも楽しんでもらえたらっていう気持ちでスタートしたんだ。それに、会社を作れば、ニセコに1年中滞在していたいという若い人たちが働ける場所にもなるしね。

僕のところでラフティングその他で半日を楽しんでもらえれば、自然とそれ以外の楽しみ方も生まれるし、そこで他のオプションが生まれる。そうすれば1年を通して楽しめるニセコのインフラもできていく。滞在の日数や回数にかかわらずね。そんな思いもあったんだ。あとは、このNACがアウトドア・センターとしての見本になっていくといいなとも考えた。僕らのそんな考え方がニセコを新しい姿に生まれ変わらせたんじゃないかと思うな。今やニセコは1年を通したリゾートとして認められているけど、ほんの少しでもその役に立てたんじゃないかと感じているよ。

6.    外国、この日本で会社を運営する大変さは?

これはまぁ、どこでも同じことじゃないかな。つまり、税金や従業員の給与といったこと。その上で利益を出すこと。それと、様々なタイプの人がいるってことをキチンと理解すること。そんなことかな。



7.    ビジネスの面で、この20年ニセコで大きく変化したことは?

やっぱり一番大きいのはインターナショナル・マーケットの拡大かな。だけどそれは同時に英語、可能なら中国語を話せるスタッフを揃えなくちゃいけないということでもある。宿泊面でも、ペンション的なものからホテルやコンドへの転換が必要になってきた。長期間滞在する人が増えれば、それだけサービスの方法が増える。また、カンファレンス(MICE)マーケットが増えてきている今は、彼らに合ったオリジナルのアドベンチャーを作る必要も出てきているけど、そうした変化がすべての面にいい影響を与えていると思う。

誰かが言ったんだ。ヒラフはまるでi-Phoneのようで、ここにいる人々やここのビジネスはappsだ、と。今ここではすごくいいビジネスモデルが展開されているし、ヒラフはみんなにとって魅力的で楽しい場所になっていると思うよ。

8.    北海道に限らず、日本の人たちのアウトドア・トラベルに対する考え方はこの10年で変化したと感じる?

そんなことはないんじゃないかな。でも今ではラフティングもメジャーになりつつあって、学校の課外活動や一般の家族連れなんかも興味を持つ対象になってきたよね。僕自身がずっとアウトドア好きなローカルに囲まれた特殊な環境にいるからかもしれないけど。ただ、アウトドアを楽しむ者としては、これからもまだやるべきことは多い。国立公園の管理とか森林区域や川の整備とか、もっとキチンと整えるべきことはたくさん残っている。

9.    これからの10年、ニセコやNACはどう変わっていくべき?

ニセコは、日本のみならずアジアを代表するようなイヤーラウンドのアウトドア・スポーツ・リゾートになる可能性を秘めた場所だと思うんだ。すでにそうなりつつあるし、その過程をつぶさに目撃し続けている自分のポジションにワクワクもしているよ。

NACについては、今後北海道の他の地域でも多くのアドベンチャーを提供できるような存在になっていけたらと思っている。

10.NACを離れている時間には、どんな楽しみ方やリラックス法を?

家族のための家を建てているところなんだ。完全にリラックスしてできる作業じゃないけど、楽しい作業でもあるよ。家庭では、これももちろん大変な作業とはいえ、100%楽しく幸せなことといえば、4人の息子たちの成長を見守ること。個人的には、リラックスというよりかなり過酷なことだけど、自転車のロードレースを5年ほど続けている。じゃあ本当にリラックスする時といったら…? 眠ることかな。