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特徴

2011
Issue 38
南アルプスの『秘宝』を求めて
By CJW

夜明け前のもの静かな早川渓谷に男の足音が響く。一面に広がる新雪に足跡はまったく見当たらず、前にも後ろにも生命の気配はない。160キロ以上続く大自然。男はさらに奥へと進んで行く。それは一人きりの世界だ。

上から『パカッ、パカッ』という乾いた音が響き、落石を知らせる。急いで絶壁に体を張りつけ、背負った重いサックを持ち上げて、首周りを守る。ヘルメットの帯を引っぱりながら身を小さく固めていると、10メートルほど横をグレープフルーツほどの岩が群れをなして落ちていった。孤独とはこういうものか。


『悪いけど、これ以上は行けないよ』 

そういうとタクシーの運転手は車を止めた。少なくとも夜叉神峠くらいまでは行ってほしかったのだが、夜明け前の路面は凍っていて、この車のタイヤではこれ以上進むのは無理だった。ここ芦安は早川渓谷から南アルプスに向かう最後の集落。山のふもとまでの長い道のりが、さらに10キロ以上遠くなってしまった。

冷たい暗闇の中、だんだんと遠くなっていくタクシーを見送りながら、気を引き締める。

夏の時期には、この周辺の山々は多くの山登り客でにぎわう。甲府駅からバスで、芦安から夜叉神峠、広河原や北沢峠まで簡単にアクセスできる。冷たく凍り付いた夜道を歩きながら、今バスがあったらどんなに楽だろうかという思いに浸っていた。

道路のできる前から使われてきた小さなサインポストが、この古いアプローチトレイルの入り口の目印だ。ここから森の中をショートカットして進む。時折トレイルを横切りながら、夜叉神トンネル入り口前の駐車エリアに着くと夜が明け始めていた。冬の間、トンネルは封鎖されている。雪は足首まで埋まる程度の深さだ。

この奥には富士山に次ぐ日本第二の高峰、北岳がどっしりとかまえている。南アルプスの盟主と呼ばれ、そのまわりを取り囲むように早川が流れる。まるで城の堀のようだ。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E4%B8%88%E3%83%B6%E5%B2%B3”仙丈ヶ岳といった赤石山脈北部のほぼ中心にあり、間ノ岳、鳳凰三山と連なるその牙城を崩すのは容易ではない。 

だが、その鉄壁の城にもわずかながら入り込む隙間がある。少しだけ高度が低くなる夜叉神エリア。 『秘宝』を盗むならばここから侵入する以外ないだろう。

先週通過していった低気圧は大雪を落としていっただけでなく、近辺一帯の木々の幹や枝を氷で被せていった。そして今、その木々が太陽の光をうけてシャンデリアのように光っている。猿の群れが敵の侵入を知らせるように甲高い声をあげ、枝から枝へと渡っていく。その度に氷が地面に落ちて、まるでガラスが割れるような音が森に響き渡った。

地図上には夜叉神峠から下に続く道を点線で示しているが、目の前にそんなものは存在しない。廃道になった上に地滑りなどが起こり、その残骸は滑りやすい氷の面になっている。

ロープを取り出し、注意深く木から木へつたって降りていく。トンネル反対側の道にたどり着くと、光が差し込んできた。そしてまたいくつかのトンネルを越え、道沿いを進む。トンネルの中は暗く、冷凍庫のように冷たい。何キロも続く道を歩いて早川渓谷のふもとへ向かっていく。

タクシーを降りてからおよそ10時間、ようやくスタート地点にたどり着いた。ここボーコン沢の尾根から北岳の山頂へ向かう。これからの道のりは長く険しい。そんな事を考えていたら、川沿いを鹿が走っていった。

サックを背負い直し、その一歩を踏み出した。果てしなく続く山頂への道のりを一歩ずつ進んでいく。 凍り付いた池の側にあるボロボロの山小屋にたどり着いた頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。雪洞を作り、寝床を確保する。わずかながらの休息だ。

午前1時には雪穴から抜け出し、夜空を見上げる。凍えるような空気を吸い込み、月を探すが見当たらない。うっすらとした月明かりが尾根の向こう側にぼやけて見えるが、あたりは真っ暗。ヘッドランプの照らす1メートル四方だけが全てだ。その明かりをたよりに森の中を進む。スノーシューが欲しいと思うくらい雪が深くなってきた。

膝から太ももまでの深さの雪の中、道を切り開いていくと、やがて勾配が急になってきた。少し進んでは滑ってもどる作業を6時間繰り返し、ようやくボーコン沢のピークまでたどり着いた。ここでコーヒーを入れる。朝日がのぼり、山々を美しく染める様子に思わず見入る。山は血のような深紅からピンク、そしてブロンズ色に輝きを変えていった。

北岳の山頂はもうすぐ手の届くところにある。雪穴を掘り、これからの登りに必要のないものを置いていくことにした。GPSに場所を記録し準備を整える。雲ひとつない晴天で、スイスイと登っていける。 腰回りのカラビナや金具がカチャカチャと音をたてる。北岳の東側、悪名高いバットレスは雪をまとい、透き通るように澄んでいる。あと、もうほんの少しだ。 

しかし丘の上から見た光景に足が止まってしまった。八本歯のことは話に聞いていた。コルのちょっと上、刃のように細い尾根上に8本の鋭い岩が立ち上がっているこの場所で、年間2〜3人が命を落としていると。数年前にも4人が冬の登頂中にここで命を落としたという。

そのゴジラの背中のような岩山に大きな雪庇ができている。岩によっては雪庇が左右にできていて、いかにこの場所の風向きが不安定なのかがわかる。これ以上進むは危険かもしれない。20分ほどこの雪庇を観察しながら、戻るべきか、それとも下山すべきかを考えていた。

結局、ピッケルと体前面を雪の中に埋め込みながら、すこしずつ進むことにした。ゆっ
り、ゆっくりと最初の岩を回り込み、傾斜60度の氷の上を横切る。そして次の岩の先端へと登る。幅30センチの道の両端は落差1キロ以上ある崖になっている。もし雪庇が崩れたら、という考えが頭をよぎる。落ち着いてはいるが、一歩間違ったら岩を転がり落ちてはるか下に待ちかまえる氷に叩きつけられる。

ピトンを打ち込み、ロープを締め、慎重に岩の上から降り、その周りを歩く。風が穏やかになると、今度は太陽の強い日差しが襲ってくる。汗が吹き出し、体を滴り落ちていく。1時間かけてようやく八本歯ノ頭まで登りきった。いよいよ目の前にせまった北岳が視界を埋め尽くしている。

そしてまた這いつくばるように登り始める。北岳の肩を超え、西面の凍った傾斜を登っていく。ここも両端は1キロ以上の崖になっているので、一歩一歩、踏み込む前に足場を固め、チェックする。もし滑り落ちたら、確実に死ぬだろう。

そして、その瞬間は突然やってきた。これ以上登るところがなくなり、南アルプスや中央アルプスの山々が冬景色に彩られ美しく輝く。これが南アルプスの『秘宝』か。山頂の印には『北岳 3,192メートル』とだけ記されている。

東には雲海の上に頭ひとつ抜け出した富士山も見える。しかし残念ながら登頂の余韻に浸っている時間はなさそうだ。早川渓谷方面から雨雲がせまっている。山の上はまだ快晴だが、きっと天気は崩れるだろう。こんなところで悪天候に巻き込まれるわけにはいかない。

慎重に自分の足跡をたどっていく。八本歯では登りの際に使ったロープにアセンダーを取りつけ、岩のまわりを登っては降りていく。その作業がとても簡単に感じられた。登りの際には注意深すぎたのだろうか? その答えは一瞬にしてやってきた。足下から雪庇が崩れ落ち、崖下の暗闇へと落ちていった。

永遠のような一瞬だった。 ロープに引っ張られ、体は宙ぶらりの状態になっている。下を見ると、ブランコのように揺れる足もとの先に断崖絶壁の景色が広がっている。悪夢の瞬間とはこの状態を言うのだろう。この先、何度この瞬間を思い出して背筋が凍る思いをするのだろうか。

荷物をデポしておいたボーコン沢の雪穴まで戻ってきたが、すでにあたりは暗雲が立ちこめていた。気温はー22度。これからもっと下がるだろう。明日の天気は分からないが、今日夕焼けを見ることができないのは確かだ。

夜を過ごすのは下の森の方が安全だと判断し、昨晩寝床にした雪穴まで戻ることにした。もし天候が悪化しなかったとしても、翌日の下りが短くなることに異論はない。深い雪の中をかき分けて降りていく。明け方に出発してから19時間後、ようやくここまで戻ってきた。そのままシュラフの中に潜り込んだ。

宿とした甲府のビジネスホテルは、屋上に温泉がある。翌日、その熱い湯に身を浸しながら冷えたビールを味わった。だんだんと酔いがまわっていく中、頭の中で今回の出来事を総括する。コブシは傷だらけ。右ふとももには刺されたようなアザができている。足の爪がひとつ取れてしまった。そして体中の筋肉が痛む。

南アルプスの『秘宝』を手にした喜びに比べれば、なんてことはない。