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特徴

2006
Issue 11
Once Upon a Time in Kyongju
By Charlotte Anderson & Gorazd Vilhar

新羅(現在の慶州)は、紀元前57年から、およそ千年ものあいだ朝鮮半島に栄えた都だ。当時の栄華を偲ばせる遺跡が街のあちこちに点在し、角を曲がるたびに遺跡にぶつかる。そんな遠い昔の魂が色濃くのこる街である。

慶州(キョンジュ)の古い写真には、立ち並ぶ家々の中に、ふっくらと芝生に覆われた小山のような古墳が写っている。古墳はあまりに街の一部になりきって久しく、誰も新羅王室が眠る場所などと意識することもないほどであった。

現在、家々は消え、古墳公園内には見栄えよく植えられた植木、池、曲がりくねった散歩道がある広大な芝生の敷地となっている。公園内の23基の古墳のほかに、被葬者のわかるものや、わからない多くの古墳がこの古都の地に横たわっている。
   
ここにある大陵苑のなかで、もっとも有名な古墳・天馬塚(チョンマチョン)の名は、天空を翔ける白馬が描かれた白樺樹皮製の馬具が他の10,000点とも言われる副葬品とともに発見されたことに由来する。石と土が積み上げられた壁が、むきだしとなった塚の内部がガラス越しに見学できる。陵の主は不明なものの、出土品から王族の古墳と見られている。

韓国で最も文化価値の高いことから、慶州はしばし日本の京都、イタリアのフィレンツェにたとえられる。しかし唯一の違いは、慶州の遺跡は他に比べ小さく、それゆえ街をあるくと想像力をかきたてられ、古代の建築物から英雄の声さえ聞こえてくるから不思議だ。

敷地にそびえたつのは東洋最古の天文台。9mの高さのボトルのような形をした塔・瞻星台(チョムソンデ)は7世紀、56代中3人いた女帝のなかでも最初の女帝となった、新羅第27代・善徳(ソンドッ)女王によってつくられた。半月城(パノォルソン)のすぐそばにある塔は、まるで詩一部のように、「星に近い場所」と名づけられた。宮廷占星学者は星空を観測し、星の位置を書き写し、独自の解釈で国の将来や重大事決定時にアドバイスをした。

もう一つの国宝も、仏教に寛容であった善徳女王の時期に建てられている。芬皇寺(プヌァンサ)に立つ、3層の韓国最古の石塔がそれだ。建設当初は7層から9層あったと思われる、いずれにしても最大のものだったことに間違いない。出土品の中には善徳女王自信が使用していたと思われる装飾品を入れるための箱が見つかっている。
   
674年に建てられた臨海殿(イムヘジョン)は、新羅の名前の下に3つの王国を統一したことを祝うために、文武王が雁鴨池(アナッチ)ととともに建設した。中国の名山を形どった山を築かせ、珍しい樹木や植物を植え、水鳥などを放ったといわれる。

今一度、かつてここで何が起こったのか理解する必要がある。数世紀後王国が滅び、月池は新羅の降伏の地となる。それを機に荒廃が進み、鴨や鳥の池、「雁鴨池」として知られるようになったのだ。湖面に映る、修復された離宮を見るとき、池のそこに眠っていった3万3000点に及ぶ遺物を思わずにはいられない。これらは現在、国立慶州博物館に収蔵されている。

わたしたちは街をでて、僧達が国の和平を祈る儀式を伝え、韓国でもっとも有名な寺・仏国寺(プルグッサ)周辺を訪ねた。この小さな寺は6世紀にすでに存在していたというが、8世紀に金大城が大幅に改築された。しかし荘厳な建物も16世紀に大名・豊臣秀吉の兵によって焼き落とされてしまう。その後、何度か再建され、 1973年に現在の姿となりユネスコの世界遺産に登録された。

東洋の最高傑作ともいわれる、美しい寺院には金大城にまつわる逸話がある。金は仏国寺を裕福な貴族の両親のために建てた。しかし、それと同時に、貧しかった村に生存する前世の母親のために石窟庵をたてたといわれる。新羅時代の傑作である釈迦如来坐像がドーム状の主室にすわる。吐含山のふもとにあり、仏国寺より歩いて一時間、車で10分ほどのところにある。

残念ながら、金はこれらの建物の完成した姿を見ることなく亡くなり、仏国寺からそう遠くない、慶州の四角形の古墳のいずれかに眠ると考えられている。彼の逸話は、数多くある新羅王国の物語のひとつに過ぎない。これらの記録や数えきれない慶州の考古学的遺跡を通して、かつての新羅王国時代を今も偲ぶことができるのは全く持って幸運なことだ。

大韓航空、またはノースウエスト航空が成田から釜山までの直行便が毎日就航。、慶州行きのバスは、釜山、金海国際空港前から終日(AM8:30~PM20:25)運行し、所要時間は90分ほど。

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釈迦がいた路

昔むかし、新羅王は新しい寺に支える僧に恒例の施しを行っていた。そのなかに、ひどく貧相な格好をした僧が一人まぎれていたが、王はしぶしぶ、彼を受け入れた。しかし王は、その男を恥じて隠すように列の後ろのほうに立たせた。

式が終わると、王はこの僧に
「僧よ、どこから来た?」
と問う。

すると僧は、
「殿下」
と答える。
「私の家は、南山の琵琶石でございます」

王は、さも見下したように
「下がってよい、しかしお前のようなものが祝いの席に参加する権利があるなど夢にも思うな」
と言い放った。

その僧は笑顔で答えた。
「お前も下がってよいぞ。しかしお前のようなものが釈迦の生まれ代わりに施しをしたなど夢にも思うなよ」

そうして、僧は雲に飛び乗り、山へ帰って行いった。恥じ入った王は、直ちに南山に僧を探しにいかせた。しかし、すでに時遅く、琵琶石の近くに見つかったのは僧の托鉢の鉢などだけであった。これを心から悔いた王は、その後、琵琶石のそばに二つの寺を建てたという。

南山はユネスコの世界遺産にも登録されおり、慶州の南端にそびえ、100を超える寺跡、十数個の石塔など歴史的遺産が存在する。おびただしい数の新羅時代の遺跡があちらこちらに点在する、高さ494mの、文字どおり「南の山」である。

千年もまえに、芸術心もあっただろう熱心な信者らが、祈りを目的この神の住む山を訪れ、己の信仰心の証を岩壁に刻み込んだものがいまだに残されている。

次の世紀に入ってから、価値の高い遺跡が次々と姿を消し始めた。そのため国は盗難をおそれ、その一部を国立美術館に保存した。しかし多く遺跡は現在も、屋根の無い美術館といわれるように、青空の下、山のあちこちに存在する。

仏教文化の遺跡めぐりには、バスが遺跡の麓まで通っている。しかし多くの遺跡は、歩きでいかなければいけない南山の谷に、わざわざ訪れてくれるのを待つかのようにたたずんでいる。

南山スカイウェイは山の峰を曲がりくねり、多くの谷へと続くハイキングコースだ。岩場の道を登り、また下り、コブのできた木々の根をまたぎ、小川を超えていく。

少し頑張って歩いたあと、突然開けた場所につき、見事な遺跡を発見した時は心が高鳴るであろう。とある仏像や菩薩は立像だか、他のものは自然の巨岩や断崖絶壁に直接彫りこまれたれたものもある。

足に疲れを感じながら、ようやく山の麓まで降りてくると、素晴らしい遺跡に出会った感動から気分が高揚する。

過去に信者らがこの険しい山に入り、何ヶ月という時間を投じて、つま先だけでしか立てないような崖っぷちで仏像を彫りこんだ事柄、また、自分が歩いた場所を、かつて釈迦が歩き、雲にさえ乗ったという話は、この地をいっそう感慨深いものにさせる。