特徴

2008
Issue 20
The Fall
By Ryan Libre

「これは血がついているから、きっと私のだよ」
カムイウンベ川近くの、たった2m四方の乾いた場所に張ったテントで、荷造りをしながら渡辺さんが言う。グロテスクなジョークのせいもあるが、安堵感から僕は笑った。渡辺さんは山で一夜をしのぎ、とりあえず生命の危険はなさそうだ。

16時間程前、58歳のこの人物は、世界遺産・知床国立公園から下山途中、崖から転落し、奇跡的に助かった。彼の半分ほど年の仲間の3人は、一番楽なルー トを選ぼうとしているのに、渡辺さんは、いつもどおり、まっすぐ進み、まっすぐ下り、これ以上進めないというところ以外どこでも、まっすぐに歩いてしまう ような人だった。

彼が下山を始めようとしているのを見て、僕は「そこはやめたほうがいい!」と言った。しかし、渡辺さんの姿はあっというまに見えなくなり、彼が墜落 した音を聞いた。僕らがいた場所から崖の下は、10m以上は見えなかった。渡辺さんの体は、それよりも下へと落ちていっていたのだ。

彼は急峻な岩の斜面で、転がり続けた。崩壊した、幅50m、長さ200mの渓谷に、たったひとつ平らな岩があった。渡辺さんはそこへ体を打ちつけられ、まっすぐを貫いていた下山も止まった。

動く気配がない。僕の心臓は乱れた。その時、渡辺さんの血にまみれた手が、頭のうえで握り締められるのを見逃さなかった。
 「まだ、生きている。今のところ……」

事故現場の近くにいるハウスゲストのハンガリー人、ビリーに向かって叫んだ。

「彼のところに、急いで! 怪我をしないように気をつけろ。たくさん出血しているけど、驚かないでくれ!」
そのすぐ後、何かが 落ちて、転がる音が聞こえた。心臓が止まりそうになった。ビリーのバックパックが転がっていったのだった。渡辺さんのところに早く辿りつくために、僕も バックパックを転がそうかと思った。だが、2日間のハイキングの途中だ。ライター、携帯電話、ヘッドランプ、ストーブなどが壊れたら、この最悪な状態を、 さらに悪化させるだけだ。

渡辺さんが落ちたあたりまで、10分程の時間が必要だった。険しい北海道のバックカントリーの平均からいっても、こんな険しい場所でハイキングすることは、ほとんどない。そんな場所に怪我人がいるのだ、状況はきびしい。

何度も足をすべらせながら、やっと渡辺さんのそばについた。彼は天国にいるお姉さんのことなどを話していて、自分がどこにいるのか、事故にあった事さえも わかっていない。額に大きな傷があり、顔が血だらけだ。目の回りには黒くあざができていて、晴れ上がってしまい、目は開かない状態。そして、手からも血が 出ていて、怪我をしているようだった。他にもどこかに怪我をしているかもしれない。だが、誰も知るよしもない。

一刻を争う状況だというのに、太陽はお構いなしに、オホーツク海へと静かに沈みはじめている。ビリーと僕は、経験を積んだガイドだ。渡辺さんの状態 を調べ、僕らにどんな選択があるか話しをすることにした。まずは止血、そしてバイタルサイン(脈拍、呼吸、血圧、体温といった生体情報)のチェッ怪我の傷 口は、縫合が必要だが、命取りといったものではない。内臓出血、精神的ショックなどが一番心配だ。

渡辺さんに立ち上がってもらい、骨折がな いか調べる。大きな骨折はないが、肋骨と指は折れているだろう。この状況では、軽傷といえよう。しかし、僕が手を離すと渡辺さんは自分で立てず、また谷へ 転がり落ちそうになった。夕暮れ前に彼をここから移動させないと……。先行きが不安だ。

メリッサの携帯電話だけが、圏内だった。だが、電話は通じなかった。次に地図を調べる。ここから、テントが設営可能な平らな場所までは、数時間かかること。選択肢が、だんだんなくなってきた。この45度の傾斜の山で夜をすごすか? 暗闇を怪我人とともに歩き続けるか?

渡辺さんの身体を温め、食事を与えているあいだに、厚い雲が空を覆い始めた。彼は落ち着きを取り戻し、普通の会話ができるようになってき た。雨が降り始めると川の水位があがり、土砂災害も起こりやすい。そのため、川沿いを歩き、海岸線へと向かうのは危険だと言う。ということは、できるだけ 早く下山しなければならない。

僕らは崩壊した谷の脇に茂る竹薮に沿い、歩き はじめた。竹薮では、大怪我の危険は低い。もっとも安全なルートを探し、後ろに続く皆を先導した。時々、崖にぶつかり、竹薮が途切れる。30分ほど進み、 200mほど降ったところで、カムイウンベ川を安全に徒渉できる場所にでた。川の水位が上がり、石の上が滑りやすくなっていたため、地下足袋に履き替え る。このとき、時間はすでに午後11時を回ろうとしている。

渡辺さんは何とか歩いていたが、足は、もう片方の足の前に投げ出すように歩き、ときどき足を滑らせていた。必死に、普通のペースで歩こうとしていたが、怪我をしているので何度も無理をしないようにと彼に言った。頭にヘッドランプをつけ、川のなかを一時間近く歩いた。

僕らはただ、テントを張ることができる平らなスペースを探していたのだが、そんな場所はまったくなかった。さらに一時間歩き続けたころ、そんな場所に辿り ついた。バックパックを置き、林に入り、あたりを探した。居心地はあまりよさそうではない。だが、午前1時に近く、みんなの疲れはピークに達していた。も うここしかない、と、この場所でテントを設営することにした。

テントの準備が整い、渡辺さんのバイタルサインを再度チェック。脈が少し速いものの、大丈夫そうだ。彼の内臓の損傷が心配だったが、他に選択もなく、すぐに眠りについた。

夜中、 渡辺さんはイビキをかいていた。イビキに起こされて嬉しかったのは、生まれて初めての経験だ。僕らは明朝7時に目覚め、みんな笑った。渡辺さんの第一声 が、「痛い!」だったからだ。そのあとで、目的地の海岸に着いたのは、午後5時だった。 医者は、渡辺さんの傷口を6針縫い、ムチ打ち症、内臓出血、肋骨と指が骨折していると診断した。渡辺さんが大怪我を負いながらも生きて帰ってこられたの は、運がよかった。彼が強い意思の持ち主であったこと、日ごろのトレーニングと、これまで積み上げてきた経験があったからこそである。だが、これらの事柄 すべてが揃っていても、無事生きて帰られるとは限らない。

4つのP
事故にあったとき、その後どう対処するか? 詳しくはNOLのWEB サイト(www.nols.edu/wmi)などを参考にするといいだろう。山に行く前にトレーニングを受けることを、ぜひおすすめする。

PREVENTION/予防
…… オフトレイルで2日間のハイキングに出かけ、携帯がつながらず、ヘリコプターが着陸するする場所もなかった。そのため、渡辺さんはもっとも安全な場所を自力で下山するしかなかった。

PREPARATION/準備
…… アウトドアのファーストエイド講習を出発前に受講しよう。アウトドアが好きなら、いつかきっと役に立つ。

PLANNING/計画
…… 緊急時に役立つ電話番号をメモしておくように。家族などに計画と帰宅予定日を伝えておこう。一緒に行く仲間にもメモの電話番号を知らせ、下山方法を伝えておくこと。ちなみに、僕らの場合、渡辺さんがガイドだったのだ。

PACKING/パッキング …… ファーストエイド・キットはグループで最低2つは必要だ。予備の食料とバッテリーも用意しよう。
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