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コラム

By Ryo Sumikawa

Iron Bridges: Monuments Stamped With Lost Memories

2006
Issue 4

このコーナーは、「おすすめのスポット」を紹介するところではない。ぼくとっては意味があったかもしれないが、一般的には「まったくおすすめではない場所」を押しつけがましく紹介する迷惑な案内所。それがこのコーナー、その名を「非観光案内所」という。

1986年12月28日、午後1時24分。突然、橋の上で強風が吹きつけた。非常ブレーキが作動し、回送中のお座敷列車「みやび」は緊急停止する。運転士がふりむくと、線路の上には何もなかった。客車が転落し、カニ缶詰工場をつぶした。工場員5名と、車掌1名が死亡した。高さ41.45m、「東洋一のトレッスル式鉄橋」とうたわれた餘部鉄橋の史上もっとも悲しい事件だ。

そんな過去を持つ餘部鉄橋の歴史がまもなく幕を閉じるという話を『BE-PAL』のメルマガで書いた。すると、これを読んだ方からメールをいただいた。実家が餘部鉄橋の近くで、父親から長いメールが来たという。


 国鉄がJRになる前年だったらしい。山陰本線が城崎駅まで電化し、記念列車「正月の買い物ツァー」の軽量車両は、香住駅で社内販売員と車掌を乗せていた。

「このときに乗務していた日本食堂のチーフが永い間の治療期間を終え復帰、私が居たゴルフ場にレストランのチーフとして赴任し、3年ほど一緒に仕事をしました。いろいろな巡り会わせがあるものです」

41mを落下して、生き残った人もいたのである。

父上のメールの最後には、事故の同年に末の子が病で亡くなったことが切実なタッチでつづられていた。それを受けて、息子さんは書いていた。

「私たちの家族には20年ほど前に末の弟を亡くしました。その年に餘部の事故がありました。父は、国鉄でことさら深い関わりがありました。我が家の記念碑の一つが無くなってしまう。知らなかった私にそれが伝わりました。ありがとうございます」

編集者冥利とはこのことだろう。心底うれしかった。ぼくはといえば、事故のニュースを祖母の家で見た。13歳のころだ。鉄橋を旅した最初は、19歳のころ、オートバイひとり旅だった。2回目は、25歳、当時好きだった女性と寝台列車「出雲」で鉄橋を通過した。3回目が『BE-PAL』の表紙撮影で32歳の秋。

時は川のように流れていくというが、それは比喩だ。実際は、ほとんどの時を忘れてしまう。たまによみがえるのは、何かが終わるとき。死、失恋、事件、事故。そんなとき、点のような記憶を拾い集め、線で結んでながめやる。生きてきた道だ。でも、そのときに思っているのは、その線ではなく、点と点の間に忘れてしまったもののことなんじゃないか(住川亮)